むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

いま、一緒に観たいと思う映画があります

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※これから長い文章がつづきます。
が、お伝えしたいことはただひとつ。

\映画上映会をするので来てください/

ということです。
4/21(土)17:20~@横浜みなとみらい

イベントページはこちらです。

www.facebook.com


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わたしは今、長野県の北の方、湯田中というところにある旅館で働いています。
毎日、いろいろなところからお客さんが来ます。
日本国内からだけではなく、海外からもたくさん。
皆さん笑顔で、和やかな雰囲気で、楽しそうで。
平和です。ものすごく。

 

でも、部屋に戻ってテレビから流れてくるのは、「すぐ隣の国が何してくるかわからないから、武器を強化して備えましょう」「世界の平和のために日本は積極的に行動するのです」というエライ人たちの言葉、、Facebookのタイムラインに流れてくるのは、どこかの国からの攻撃によってぐちゃぐちゃになった街並みやそこで泣き叫んでいる子どもの写真や動画、ネットのニュースに流れてくるのは、日本からは遠く離れた国の名前と、桁外れの数字と、死傷、という文字。

 

そして、それらの言葉や写真や文字に、なんの感情も抱かなくなっている自分。
それらが日常に、当たり前になってしまっている自分。
自分とは無関係の世界の話だ、だって湯田中平和だし、と思っている自分。

 

何が怖いかって、そんな自分が一番怖いなあと思うのです。

 

大学生のとき、同じサークルの3つ下の後輩が、
「先輩、なんで戦争って起きるんですかね。戦争が無くなれば解決する問題ってたくさんあるのに」
って言っていました。

そのときわたしは大学4年生とかで、世界中で苦しんでいる人たちのために自分ができることの限界を感じつつある時期で、だから、ああこの子は若いなあ、なんてちょっぴり冷めたふうに思っていました。

 

わたしは日本史が好きです。
一番好きなのは幕末ですが、歴史ものの映画やドラマ、本などは特にこだわりなく、どの時代もまんべんなく触れています。
織田信長のことは、あの残虐さはどうも好きになれませんが、時代の先を読む力に関しては、すごいなーこの人、とただただ感心します。
まあこのあたりはつくられたドラマや映画によるものなので、どこまで史実かはわかりませんが、織田信長が生まれたとき、世の中は"戦、いくさ"が日常、当たり前でした。領地を広げるために戦う、出世するためには戦で手柄を立てる必要があるから、皆その訓練をする、戦うことが生きること、生きるか死ぬか、お父さんや旦那さんが死んだら悲しいけど、それは仕方のないこと、弱ければ死ぬ、それが当たり前。

でも、そんな当たり前に、
それっておかしくない?みんなが争い合って悲しみ苦しみばっかり生まれるのって、おかしくない?それって、みんなが戦うことでしか生きる方法を知らないから、だから戦うんでしょ。戦わなくても生きる方法がわかれば、みんな戦うことなんてやめるよ。そうしたら悲しみも苦しみもなくなるじゃん!戦うのやめようよ~。戦なんてもう過去のもの!おーしまい!
って、そんな、今まで誰も想像したこともなかったことを、ひとりの人間が想像して、実際に行動したことで、今まで当たり前だったものが、当たり前じゃないものに、過去のものになったんです。

 

あれ、これって、戦国時代の話だけど、今の世界にも当てはまるんじゃないの。
あるとき、ふとそう思いました。

 

今は、いろんな理由が絡み合って、戦争をするということが当たり前になっているけれども、戦争は悲しみや苦しみしか生まないということも多くの人が知っているはずです。

 

織田信長みたいに、そもそも戦争という手段をこの世界から無くしてしまえばいいんじゃないか!人間が武器を手にして同じ人間を傷つける手段を、無くしてしまえばいいんじゃないか!この世界から武器が無くなる、その武器を使う軍人がいなくなる、軍隊がなくなる、必要がなくなったら。

 

そんなの夢物語でしょ。
現実世界はそんな単純な話じゃないんですよお嬢ちゃん。

 

もちろんわかっています。

 

でも、やっぱりおかしいなあと思うんです。
戦争は良いものではない、ということは小学生でもわかるはずなのに。

 

そんなときに、わたしはこの国のことを知りました。
(やっと本題!笑)

 

コスタリカ共和国

 

中央アメリカ、カリブ海に浮かぶ国です。

日本では1年前くらいにちょっと有名になりましたでしょうか。
"軍隊を持たない"国として。

武器があるから、軍人がいるから、軍隊があるから、戦争が起きる。
武器がなければ、軍人がいなければ、軍隊がなければ、そもそも戦争は起こらない。

もし、世界中の国から軍隊が無くなったら、世界中から戦争が無くなる。
(武器がある限り、という話はありますが)

今のこの時代に、しかも中央アメリカという地理的状況の上で、軍隊を持たない、という選択をした国。
今でも平和が続いているという国。
まさに"奇跡"だなあと思いました。
"奇跡"だけれども、この国の形がきっと、近い将来のスタンダードになる、当たり前になる。

 

え、戦争?なにそれ。
え?人間同士が武器なんか持って殺し合ってたの?なにそれ怖い―野蛮ー。

 

そんな会話が、生きているうちに聞けるといいな。

 

ということで、
この、"奇跡"の国のことを描いたドキュメンタリー映画コスタリカの奇跡~積極的平和国家のつくり方~」の上映会を開催することとなりました!
秀くんという、素敵なパートナーと共に。
さらに、これまた素敵な先輩の紹介で、コスタリカ青年海外協力隊として活動されていた、白井瑞穂さんをお招きして、コスタリカについていろいろとお話をお伺いします!

 

なぜ、上映会を企画することになったか、という話はまた長くなるので、もしも気になる方がいましたら、上映会の懇親会のときにでも聞いてやってください。

 

日程は、4/21(土)
時間は、17:20~上映開始
場所は、横浜みなとみらい「BUKATSUDO」というシェアスペース

 

長くなりました。
最後まで読んでくださって、大変ありがとうございます。

 

当日、お会いしてお話しできること楽しみにしています。

「”日本人”はこうあるべき」論について思ったこと少し

坂口安吾の「堕落論」を読んだことと、古き良き日本へ!みたいな風潮がよしとされていることに対するちょっとした違和感が重なって、書きだしてみたこと。

 「堕落論」については以下を。

mitoooomo.hatenablog.com

mitoooomo.hatenablog.com

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「最近の人たちは、自分さえよければいいという思いが中心で、他人への思いやりがまったくない。公共のために尽くすという昔から日本人が大切にしてきた考えがおろそかにされてしまっている。それではよくない。世界情勢が不安定な今、国は一つにまとまり、国民は国のために尽くすべきなのである。どんな逆境にも屈することなく、一つになり我が国を発展させてきた先人たちを見習って」

的な話。

 

わからなくもないけど、なんか違うよなあと抱いてきた違和感。

国のためになにができるか、と問い続け動いた幕末志士たちは最近もてはやされていて、たしかに彼らの生き様はかっこよくて、それに比べると現代の人たちは、自分のことと、半径5mくらいの人たちのことしか考えていないような気がする。

そう思うと、「国のために」という感覚は取り戻す必要があるのか、と思ったりもする。

けれど、太平洋戦争に向かう「お国のために」は、おかしかったと思う。
けれど、戦後の復興、経済成長の過程での「国のために」は、そのおかげで今の日本があるということは事実としてあって、そのために人々がひとつの方向をむいて汗水たらしているという画は、たしかに美しいと思う。

 

だけど、あたかも、

国にために尽くすこと=昔から受け継がれてきた日本人の精神

みたいに位置づけられている感があるけれど、決してそうではない。と思う。

 

「国のために」という精神が生まれたのは、せいぜい明治時代から。
だってそれまでは、「国」が存在していなかったから。
そう考えると、ちっとも昔からの精神なんかではない。

 

ただ、江戸時代は、国の代わりに藩があって、藩のために生きることが美しいとはされてきた部分はあったと思う。
◯◯藩の◯◯ですっていうアイデンティティ
それが、幕末に勝海舟が「日本人」っていう価値観をつくって、日本人の◯◯、というアイデンティティができた。
そして、日本国と西欧列強という対立構造、ライバルをおくことで国を一つにし、まとめあげて国を進歩させていった。
結果として、よかった面もそうじゃない面もあると思う。

 

紆余曲折あって、国のためにの感覚が失われたという人もいるけれど、
わたしは、


国のために=日本のために


世界のために


にかわっただけのような気がする。

 

世界のために、なにができるか、なにがしたいか。

もちろん、世界には日本も入っているけれど、単純に視野が広がっただけというか。
「◯◯藩」が「日本という国家」に変わったときと同じように。

 

だからその、日本の国のためにつくすという国民性が失われたということと、
思いやり、他者につくす気持ち、他者に干渉する気持ちがなくなったということは、
まったくつながることではないと思う。

というか、失われていないし。

むしろ、日本だけ、日本人だけ豊かで幸せなったとしても意味ないよねって、世界には困っている人たちがたくさんいるよ、って、どうにかしなくちゃだめだよねって、ただ対象が広がっただけのこと。

 

というところで、1つすっきり。

 

でもなんとなくグラつく感覚。
地に足ついていない感覚。
わたしはなにものなのか、という感覚。
日本人ってなんなんだ、と問いたくなる感覚。

同じような感覚って、江戸から明治にかわる過程でも、人々は感じたのではないだろうか、と思ったり。
藩というアイデンティティがなくなりつつあったとき。

いや、だからこそ、さらに藩意識が強くなったのか。
薩摩、長州とか特に。

そのうち藩が県になり、各藩の伝統文化や精神は日本国の精神としてまとまっていった。
(この辺はまったくわからないな、各藩の特徴とか、藩がなくなる過程での人々の葛藤とか、知りたい)

きっといい面もそうじゃない面もあったと思うけれど、そのときも、◯◯藩の、というアイデンティティ持ち続けた人もいただろうし、そうじゃなくて日本人というアイデンティティ持っていた人もいたと思う。

 

そう思うと、いま、日本人が日本人であり続ける理由ってないような気がしてきた。

 

日本人が日本人であった理由は、地理とか風土とかに関係していたけれど、それはいってしまえばたまたま。
それが今は、どこにでもいけてなににでもなれる。
ほかの文化の方が性に合っているかもしれない。
日本のいわゆる伝統文化が性に合っているなら、そうすればいいだけのこと。
それを強制する理由はない。
それが悪だという理由もない。

 

日本人なんだから、世界のことよりまずは日本の問題を解決する方が先なんじゃないの?

っていう主張。

これに悩んだ時期もあったなあ〜。

いまははっきり、関係ないでしょ、って言える。

ということで、もう1つすっきり。

 

堕落論安吾が言いたかったことはこんなことなのかもしれない。

思考停止するな!
ってこと。

【堕落論】3.「必要」のみを求めよ

100分 de 名著堕落論」(著:坂口安吾)の第3回。

第1回は、「堕落論」を読み解き、
第2回は、“堕落”とは何かについて読み解きました。

mitoooomo.hatenablog.com

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そして第3回は、「堕落論」のルーツともいえる「日本文化私観」(昭和17年発表)から、安吾の思想を読み解いていきます。

ざっくりとした内容
・日本人である限り、日本を見失うはずはない。
・「伝統の美」より「生活の必要」
・生身の人間がある限り、伝統は亡びない。
・「必要」のみを求めよ。そこに真の美が生れる。
・日本人である限り、日本を見失うはずはない。


「日本文化私観」の冒頭

“タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、猥りに酔い痴れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。”

“けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない。”

“タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。”

本文に出てくるタウトとは、建築家・ブルーノタウトのこと。
当時、世界的に注目を集めていた建築家。
ナチスの迫害から日本に亡命してきた人物。
桂離宮などの伝統的建築を、精神性の高い文化であると絶賛した人物。
逆に、人工的な都会の風景を俗悪だと批判した人物。

そのタウトの名をだして、タウトの著書「日本文化私観」とまったく同じタイトルで、彼の意見に反論している。
タウトは外国人として、外から鑑賞しているにすぎないのだ。
そんな外国人の意見にまどわされるな。

 

・「伝統の美」より「生活の必要」

“伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。”

“日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の目から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑が甚だ浅薄でしかないのである。”

何よりも優先されるべきは実際生活。
伝統でお腹がいっぱいになるわけではない。
生活が“健康”であるということが一番の基礎。
フランスのジャン・コクトー「なぜ日本人は着物を着ないのか」
安吾「着物よりズボンの方が生活しやすいから。それが健康だから」

タウトの評価を喜んだ日本人がたくさんいた。
日本はすばらしいんだという優越感。
外国人にほめられると嬉しい日本人。
日本人よ、まどわされるな。
日本人よ、自信を持て。
今の暮らしに必死になって何が悪い。
大事なのは、暮らすことだ、生きることだ。
外の人間のいうことなんか気にするな。

 

・生身の人間がある限り、伝統は亡びない

安吾が高く評価した日本人。
豊臣秀吉
タウトが俗悪だと批判した彼を、安吾は大絶賛。

“秀吉という人は、芸術に就て、どの程度の理解や、観賞力があったのだろう?そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、各々の個性を生かした筈なのに、彼の命じた芸術には、実に一貫した性格があるのである。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にある限りは清濁合せ呑むの概がある。”

秀吉にあったのは、高尚な美意識ではなく、天下一に対する強烈な意欲だとして、これを絶賛。

“俗なる人は俗に、小なるひとは小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。若し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。”

自分の欲望があるなら、とことんやってみろ。格好つけるな。

“人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、有る筈がない。”

良寛抜きにいくら立派な寺があったってしょうがない。
生身の人間のものがありさえすればいい。
生身の人間に還っていけ。

 

・「必要」のみを求めよ。そこに真の美が生れる。

安吾が美しいと思ったもの、3つ。

“僕は浜辺に休み、水にうかぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイス工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思い出していたのであった。”

“この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要な物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。”

法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。”

“見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ、我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。”

究極的な機能美。
しかし、機能美を目指そうとしてしまっては違う。

真に必要なものだけ、己の欲だけを追求したものだけが、美しい。

 

感想


「昔からの伝統だから」「日本人はこうあるべきと言われてきたから」
そんなものにすがる必要はない。
生活に必要かどうか、生きる上で必要かどうか、それを真に欲しているかどうか、重要なのはその点である。
そのことで、日本文化が滅びることは決してない。
なぜなら、我々は日本人だからである。

的な感じでしょうか。

堕落論」の文化バージョンという感じですが、言おうとしていることは同じですよね。

お前が本当にやりたいことは何なのか。
それはお前が心から欲していることなのか。
世間体や昔からの道徳観などにしばられて動けなくなっているだけではないのか。
本質が見えているか。

的な。

一部分だけ切り取って説明されたら、けしからん!と感じる人もいると思います。
伝統文化はそんなものではない、とか。
“生活”などという低俗なものとはかけはなれた、高尚なものなのだ、とか。

伝統文化に関しては、わたしは専門家ではないのでよくわかりません。
ただ、心に響くものもあれば、そうではないものもある、そんな感覚です。
少し前まではわたしも、「昔からあるものだから」「長い年月をかけて伝えられてきたものだから」という理由で、いいものなのではないか、残さないといけないものなのではないか、と思っていました。
そしてそれらには、言葉では説明することのできない、重みや存在感や美しさのようなものがあって、それを感じ取れることが日本人として欠かしてはならない教養のように思っていた部分がありました。
なので、そういった伝統にできるだけ触れる機会をつくろうと思っていました。
けれど、立派な寺や美術品や建築物や絵画などを見ても、ふーん、くらいにしか感じることはできませんでした。何百年も残っていてすごいなあ、くらい。
着物に関しても、そうでした。
「民族衣装を自分で着られないのは日本人くらいだ。恥ずかしい」
という話がありますが、そこに関してそれが強要されるべき理由は全くないと思います。
自分が着物を着ることが必要だと思えば、着ればよいだけのことで、着物を着る文化は日本独特のものだから、絶対に守られるべきである、それが日本のためである、我々は社会的に意義のあることをしている、と強要する立場には、少なくともわたしはなれませんでした。
結局自分は、自分の暮らしが大事で、そこが常に出発点で、自分の暮らしに必要だと思ったものはいろいろ調べたり得たりするけれど、それで自分がよいと思ったからって広めたいとは思わないし、そこは各々の必要があるわけで、もしわたしも同じものが必要だと思うのよ、話を聞かせて、と言われたら、そこで初めて話をすればいいだけのことで、そこに関してのエネルギーがほとんどないということに、最近気づきました。
いや、前からうすうす気づいていたのかもしれませんが、今回、坂口安吾の思想を知って、安吾ありがとう!と思えました。

 

安吾は別に、伝統文化を否定しているわけではないと思います。

「日本文化私観」の中で、こう言っています。

“伝統あるものには独自の威力があるものだ”

 

“然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。”

 

“貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。”

 

また、こうも言っています。

“彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである”

 

“伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われ、外国には行われなかった習慣が、実は外国人に最もふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。(中略)インスピレーションは、多くの模倣の精神から出発して、発見によって結実する。”

 

“説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。”

 

必要かどうか、そのことだけを追い求めていても、伝統は無くならない。なぜならそれが伝統になっていくからである。
的な感じでしょうか。

 

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ちなみに、第4回は、「堕落論」の小説バージョンともとらえられる作品、「白痴」を読み解く内容です。

「白痴」
堕落論」の2か月後に発表された作品。
「白痴」を読めば、「堕落論」がよりよくわかる。

 

あらすじ
時は太平洋戦争末期。
モラルも常識も持ち合わせない人間が暮らすはずれの街。
仕立て屋の離れに間借りしている、演出家見習いの青年、伊沢。
芸術を志し映画社に入ったものの、戦意高揚ニュースばかりつくる会社の現実に、不満をくすぶらせていた。
ある日、伊沢が家に帰ると、そこには隣の家から逃げてきた人妻、オサヨがいた。
美しいが、知的に障害があり、まるで人形のよう。
そんな女との、ひそやかな生活が始まった。
肉体の喜びを純粋に求める女、その一方で空襲が始まると恐怖に醜く顔をゆがめる。
伊沢はオサヨにむきだしの命をみた。
戦争という極限状態の中、人間の真実の姿を見つめた作品。

 

感想
強制的に、“堕落”した状態。
会社の現実からも、近所の目からも、芸術と生活を区別したいと思っていた気持ちからも。
そういうものが、破壊によってなくなった今。
さあ、これから伊沢はどう生きるのか。
お前たちは、どう生きるのか。
ということを、問うている作品のような気がしました。
「白痴」の終わりが、「堕落論」のはじまり、であると。

【堕落論】2.堕落とは何か

100分 de 名著堕落論」(著:坂口安吾)の第2回。

 

第1回の内容のまとめはこちら。

mitoooomo.hatenablog.com

 

堕落のすゝめ。
日本人よ、日本国よ、堕落せよ。

堕落論の最後はこうしめられています。

“他人の処女でなしに自分の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかないものである。”

第1回で、
堕落とは、それまでよしとされてきた道徳観や美意識から目覚め、それらをはがし、自分自身で生きていくこと
とまとめられました。

しかしまた、安吾はこうも書いています。

“だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鉄鋼の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。”

“堕落”とは、そんなに大変なものなのでしょうか。

たしかに、第1回でまとまった“堕落”ということ、言葉では理解できるような気がしても、実際に体で理解することはむずかしいような気もします。

 

そこで第2回は、
“堕落”とは何かということを、「続堕落論」(「堕落論」の約8か月後に発表されたもの)を参照しながら、より深く紐解いていく内容になっています。

ざっくりした内容
・“堕落”から“堕落”せよ。
・“堕落”は苦しいもの。だが唯一天国に通じる道である。
・堕ち続けなくてもいい。しかし今いる状況を疑い続けろ。

 

・“堕落”から“堕落”せよ。

“人間の、又人性の正しい姿とは何ぞや。欲するところを素直に欲し、厭な物を厭だと言う、要はただそれだけのことだ。好きなものを好きだという、好きな女を好きだという、大義名分だの、不義歯御法度だの、義理人情というニセの着物をぬぎさり、赤裸々な心になろう、この赤裸々な姿を突きとめ見つめることが先ず人間の復活の第一条件だ。そこから自我と、そして人性の、真実の誕生と、その発足が始められる。”

“日本国民諸君、私は諸君に日本人、及び日本自体の堕落を叫ぶ。日本及び日本人は堕落しなければならぬと叫ぶ。”

“私は日本は堕落せよと叫んでいるが、実際の意味はあべこべであり、現在の日本が、そして日本的思考が、現に大いなる堕落に沈淪しているのであって、我々はかかる封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」から転落し、裸となって真実の大地へ降り立たなければならない。我々は「健全なる道義」から堕落することによって、真実の人間へ復帰しなければならない。”

天皇制だの、武士道だの、耐乏の精神だの、五十銭を三十銭にねぎる美徳だの、かかる諸々のニセの着物をはぎとり、裸となり、ともかく人間となって出発しなおす必要がある。さもなければ、我々は再び昔日の欺瞞の国へ逆戻りするばかりではないか。まず裸となり、とらわれたるタブーをすて、己れの真実の声をもとめよ。未亡人は恋愛し地獄へ堕ちよ。復員軍人は闇屋となれ。” 

 

現在の日本はすでに“堕落”している。
戦時中の軍国主義だけが“堕落”ではない。
封建遺制のカラクリにみちた「健全なる道義」(島国根性村八分など、戦後は平和主義や民主主義)が“堕落”である。
まずそこから“堕落”せよ。
それらのニセの着物をはぎとり、裸となって、人間となって出発せよ。

 

・“堕落”は苦しいもの。だが唯一天国に通じる道である。

“堕落すべき時には、まっとうに、まっさかさまに堕ちねばならぬ。道義頽廃、混乱せよ。血を流し、毒にまみれよ。先ず地獄の門をくぐって天国へよじ登らねばならない。手と足の二十本の爪を血ににじませ、はぎ落して、じりじりと天国へ近づく以外に道があろうか。”

“堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る意外に術のない宿命を帯びている。” 

“善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んでいく。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野びひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。”

“悲しい哉、人間の実相はここにある。然り、実に悲しい哉、人間の実相はここにある。この実相は社会制度により、政治によって永遠に救い得べきものではない。”

“堕落”をすることはものすごく苦しいもの、エネルギーのいること。
固定観念をはがしていくことは自分の身の皮をはがすような苦しさ。
自分の生きる道は自分で探していかなければならない。
概して日本人は集団で同じことをやる。みんなと一緒にやっていれば安心だ、と。
それではだめだ。
ひとりひとりが自分の堕落の道をどうやって進むか。

 

・堕ち続けなくてもいい。しかし今いる状況を疑い続けろ。

“我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリを、つくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母体であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。”

人間はなにかしらの制度をつくらなければ生きていけない。
すがるものがないと生きていけない生き物である。
なにかにすがりたくなる生き物である。
それは、人間は弱い生き物だからである。
安吾はその点を非難してはいない。
ただ、思考停止してはだめだということを言っている。
いまはこのカラクリの中にいるんだということを自覚する必要がある。
今いる状況を疑う意志を貫く必要がある。

 

 

感想


堕落=外にあるもの(この時代なら国、今の時代なら会社など)に自分を預けるのではなく、そこから離れること
堕落=会社のためにつくすことは美しい!という道徳観をはがすこと
堕落=世間の道徳観を捨てること
堕落=見栄もプライドも世間体もなにもかも捨てて、ただ己の声に従って生きること
堕落=考え、価値観、信じるものが変わること
堕落=自分自身で生きていくこと

 

世間の道徳観とか常識とか、むかしからの伝統だから、世間が良しとする考え方だから、という理由だけで、それにすがってそれにおおわれて生きる生き方は今すぐ捨てろ。
それらをはがしたところに、自分が本当に欲するものがある。
そうしてはじめて、本当に必要なものがわかる。
堕落してはじめて、自分の人生を歩むことができる。
堕落がスタート地点。

 

途中は、正直苦しかったですね。
“堕落”して生きる生き方はいいものだと思うし、わたしの生き方はたぶんそれに近いと思っているけれど、そんなもんじゃないんだぞと、“堕落”はものすごく過酷なんだぞと。手と足の爪を血ににじませる勇気はないなあ。
わたしの“堕落”は中途半端なんだなあと痛感させられました。
でも、そこは安吾
人間のことをよくわかっていらっしゃる。
そう、人間は弱いんです。まったく強くないんです。
たまにはカラクリに頼ってもいいよって、だけどそのときはいまカラクリに頼っているんだということを忘れてはいけないよって、そうしてまたそのカラクリから堕落して、自分自身の道を歩んでいけばいいんだって言ってくれています。

 

堕落論は、戦後、いままで良しとされてきた道徳観と、でもそれって本当に正しいの?と思い始めている自分の心の声にはさまれて身動きができなくなっている人への熱いエールのように聞こえました。
多くの人は救われただろうな。かなりの問題作ではあったと思いますが、「よく言ってくれた!」と、言いたくても言えなかったことを代弁してくれたような、すがすがしい気持ちになった人も多かったのではないでしょうか。それにしてもすごい勇気。
現代でも、似たような状況に陥って身動きがとれなくなっている人はたくさんいるような気がします。
同時に、自分自身へのエールというか、型にはまることのできなかった自分に対して、自分の生き方を肯定し、自分の生き方を世に問うているようにも感じました。

 

それから個人的には、文学と政治の関係について書いてある部分が、なるほどな、とすんと腑に落ちた感じがしました。

“人間と人間、個の対立というものは永遠に失わるべきものではなく、しかして、人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存しておる。(中略)しかして、この個の生活により、その魂を吐くものを文学という。文学は常に制度の、又、政治への反逆であり、人間の制度に対する復讐であり、しかして、その反逆と復讐によって政治に協力しているのだ。反逆自体が協力なのだ。愛情なのだ。これは文学の宿命であり、文学と政治との絶対不変の関係なのである。”

わたしは政治家でも文人でもありませんが、政治家と文人にこのことについて話を聞いてみたいです。
政治。
制度は人間を救うことはできないという感覚(あくまで感覚)は、あります。
でもそれでも政治が存在する意味は、意義は何なのか。
政治とは何なのか。
気になる論点です。

 

それにしても、坂口安吾の文章は、読んでいてスカッとします。

戦後に発表された「堕落論」。
堕落論的思想は、実は戦時中からすでに彼の中に存在していて、それは昭和17年に発表された「日本文化私観」に書かれているということで、第3回はその「日本文化私観」について掘りさげていきます。

【堕落論】1.堕落のすゝめ

わたしはテレビが好きです。

テレビは子どもの教育によくないだの、目が悪くなるだの、バカになるだの、最近はなにかにつけて悪役になりがちなテレビくんですが、わたしは好きです。

もちろん、テレビを見てばっかりいたらバカになる、という意見には同感します。
見るに値しない、どうでもいい番組があふれかえっているなあと思います。

それでも、そんなことない、とっても質のよい番組もたくさんあると感じています。
(わたしはテレビ局の人間でも、制作会社の人間でもありません。ただ、いち視聴者です)

テレビ欄をながめて、おもしろそうな番組を見つけては録画して、時間のあるときに見ることがたのしみだったりします。

中でも特に好きで毎回欠かさず録画している番組があります。
Eテレの「100分 de 名著
(お馴染みの)

 

今回の名著は、

堕落論」(著者:坂口安吾)
1946年(昭和21年)に出版された本。終戦の1年後ですね。
坂口安吾が40歳のときの本。
敗戦直後の日本人に向けて、堕落を説いたエッセイ。
“堕落のすゝめ”的な。

指南役は、東京女子大学教授の大久保喬樹氏。
大久保氏は、大学紛争の真っただ中の頃、この先どうなるのかまったく見えないという状況の中で堕落論を読み、「あ、これでいいのか」と思えたそうです。

坂口安吾は、文学史的には無頼派と呼ばれるうちのひとりで、他には太宰治など。
弱気弱気な太宰治に対し、安吾は強気強気で世間に挑戦していた、無頼派の四番バッター的存在。
覚せい剤や大量の睡眠薬を使用したりもしていた破天荒な生き方で、48歳で他界。
代表作は、「白痴」「桜の森の満開の下」「不連続殺人事件」「信長」「安吾新日本地理」など。純文学、推理小説歴史小説、紀行文など様々なジャンルを執筆。
新潟県生まれ。

 

堕落論」のざっくりとした内容
・人間はなにも変わっていない。変わってきたのは世間の方である。
・世間が良しとしてきた道徳観は、歴史が都合良くつくりだしてきたものにすぎない。
・その道徳観をはがすこと=堕落
・堕落したところから、人生は始まる

いわゆる世間が成功というレールから外れてしまった人とか、いわゆる世間の常識とか価値観とかに多かれ少なかれ疑問を抱いている人とかにぜひ読んでもらいたい。
あ、これでいいんだな、って勇気がわいてくると思います。

わたしもそのひとりです。
出会えてよかった。

 

・人間はなにも変わっていない。変わってきたのは世間の方である。

半年のうちに世相は変わった。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者たちは花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変わったのではない。人間は元来そういうものであり、変わったのは世相の上皮だけのことだ。

戦時中、よしとされてきた道徳観。

“今日よりは顧みなくて大君の 醜の御楯といでたつ我は”
海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君のへにこそ死なめかへりみはせじ”

天皇のために命を捧げることが美しい

“ももとせの命ねがはじいつの日か 御楯とゆかん君とちぎりて”

→長い命なんていらないと、いつの日か戦いに行く君と誓い合って
→戦場で華々しく散っていった夫をいつまでも想い続けることが美しい

けれども、若い男は闇屋になるし、未亡人は新しい恋をする。
だが、それが人間というもの。
変わったのは世相の上皮だけのこと。

 

・良しとされてきた道徳観は、歴史が都合良くつくりだしてきたものにすぎない


“この戦争中、文士は未亡人の恋愛を書くことを禁じられていた。戦争未亡人を挑発堕落させてはいけないという軍人政治家の魂胆で彼女達に使途の余生を送らせようと欲していたのであろう。軍人達の悪徳に対する理解力は敏感であって、彼等は女心の変わり易さを知らなかったわけではなく、知りすぎていたので、こういう禁止項目を案出に及んだまでであった。”

“元来日本人は最も憎悪心の少ない又永続しない国民であり、昨日の敵は今日の友という楽天性が実際の偽らぬ心情であろう。忽ち二君に仕えたがるし、昨日の敵にも仕えたがる。生きて捕虜の恥を受けるべからず、というが、こういう規定がないと日本人を戦闘にかりたてるのは不可能なので、我々は規約に従順であるが、我々の偽らぬ心情は規約と逆なものである。”

“今日の軍人政治家が未亡人の恋愛に就いて執筆を禁じた如く、古の武人は武士道によって自らの又部下達の弱点を抑える必要があった。”

天皇制は天皇によって生みだされたものではない。天皇は時に自ら陰謀を起したこともあるけれども、概して何もしておらず、結局常に政治的理由によってその存立を認められてきた。” 

“要するに天皇制というものも武士道と同種のもので、女心は変り易いから「節婦は二夫に見えず」という、禁止自体は非人間的、反人性的であるけれども、洞察の真理に於て人間的であることと同様に、天皇制自体は真理ではなく、又自然でもないが、そこに至る歴史的な発見や洞察に於て軽々しく否定しがたい深刻な意味を含んでおり、ただ表面的な真理や自然法則だけでは割り切れない。”

貞節・武士道・天皇制」これらは、支配の都合のためにつくりだした歴史の産物である。
本来日本人は、ふらふら動きやすい人間である。
女性の心は変わりやすいし、憎悪心は長くは続かない。
だがそれでは、上に立つものが下をまとめることができないから、徳目を民衆に押しつけてそれらを抑えることで、支配をしてきた。
また日本人は、そういうものに従うことが美しいと感じる人間である。
運命・死・滅びの美など。
安吾自身も、その美しさを感じていた。

 

・その道徳観をはがすこと=堕落

“私は偉大な破壊を愛していた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。”

“あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。”

“偉大な破壊、その驚くべき愛情。偉大な運命、その驚くべき愛情。”

“それに比べれば、敗戦の表情はただの堕落にすぎない。”

“だが、堕落ということの驚くべき平凡さや平凡な当然さに比べると、あのすさまじい偉大な破壊の愛情や運命に従順な人間達の美しさも、泡沫のような虚しい幻影にすぎないという気持がする。”

美しいと思っていたもの。信じていたもの。
それが幻にすぎなかったと気づいたとき。
自分で自分の生き方を考える余裕がなくなったとき、与えられた美意識や道徳観に従って生きることが美しい生き方なんだと、安吾自身もはまっていた。
しかし戦争が終わって、あれが自分をしばっていた、思考停止させていた幻影だと気づいた。
そこから目覚め、自分自身で生きていくこと=堕落。
人間が生きていく原点に帰る。
与えられた枠組みの中で生きるのではなく、生身の人間として生きていく。
自分の外にあるもの(戦争、敗戦、会社、学校)に自分を預けるのではなく、そこからひきはがしてみる。
それが堕ちるということ。

 

・堕落したところから、人生は始まる

“特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始まるのではないのか。未亡人が使途たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないか。”

“人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。”

“戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。”

今まで信じてきたものが崩れ去ったとき。
あれは幻だったのだ、と、そんなものはとっとと捨て去って、足元を見てまた歩きだせばいいのだ。

 

第1回の内容、おわり。

「堕落」とは何かについて掘り下げた2回目の内容は、次回に。

これほんと、世界変わるかもって思った

Eテレ(NHK教育テレビ)の番組、『100分de名著』
毎週水曜日の夜と、あと2回くらい再放送している番組。

 

名著と言われている本、ひとりで読み解くのはちょっとむずかしいかも~という本を、
25分×4回の放送で読み解く番組。
進行役はアナウンサーの武内陶子さんとタレントの伊集院光さん。
加えて、その著者に詳しい指南役の先生の3人。

伊集院さん、質問が的確で、
そうそう!そこ聞いてほしいところ!
というのを聞いてくださったり、わかりやす~いような例をあててくださったり。
さらに、寸劇とかアニメーションとかがまざっているから、とてもわかりやすいんです。

 

わたしこの番組好きで、
録画して観ては、一時停止ボタンを駆使してノートにメモしたりして、
ちょっと賢くなった気分にひたっているのですが、
今回の名著は、

A.アドラーの『人生の意味の心理学』

名著51 アドラー「人生の意味の心理学」:100分 de 名著

 

A.アドラー、心理学者。
最近流行りの。
本屋さんとかに行くと、A.アドラーの関連本がずら~っと並んでいるのを目にした人もいるかと思います。
わたしも、名前は知っていたしその光景は目にしたことがあったけれど、
いまいち手に取る気は起きずにスルーしてしまっていた人。

心理学者と言えば、フロイトとかユングとかが有名だと思いますが、
A.アドラーは、その二人と並ぶ、“心理学の三大巨頭”と言われているそう。

「人生はいつでも変えられる」
「誰もが幸福になれる」
「世界はシンプルだ」

などなど。

新興宗教
と思ってしまうような文句がならんでいて、
な~んかうさんくさいな~と思っていたのも、読んでみようと思わなかった理由のひとつだったかもしれません。

 

でも今回、100分de名著がそのアドラー
せっかくの機会だし、観てみよう、ということで観てみました。

 

指南役は、哲学者でカウンセラーの岸見一郎さん。
アドラー心理学の第一人者。

 

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  • 第1回「人生を変える『逆転の発想』」

岸見先生曰く

アドラーを知れば、人生が変わる」
「個人の人生はもとより世界が変わる」

らしい。

 

アドラー心理学の誕生
A.アドラー(1870~1937)
・オーストラリアの裕福なユダヤ人家庭の生まれ
・幼いころの病気で自由に体を動かすことができず、健康な兄に劣等感を抱いていた
・病を克服し、医師に
・開業した病院は、有名な遊園地の近く
大道芸人など、体を武器にする芸者たちが通うようになる
・肉体を武器にする彼らのほとんどは幼いころは体が弱かったことを知る
・身体的ハンディキャップはそこから生じるマイナスを何かでおぎなおうとする、それはなんらかの形で性格や行動に影響を与えているのではないか
・「劣等感」の力に着目
・心理学の道へ
フロイトの勉強会に参加し、共に研究するように
第一次世界大戦では精神科医として従軍
・多くの負傷者を診断する中で独自の心理学を築いていった

アドラーフロイト

学説の違いから決別。
フロイト:“リビドー(性的欲動)”が人間のパーソナリティの基礎
アドラー:リビドーではなく“劣等感”

□“劣等感”への着目

“劣等感”は人生に立ち向かう力も生み出す
という風に考え、アドラーはその力に着目した。

□戦争体験を経て

フロイト:人間はなぜ闘うのか、人間には攻撃欲求があるからだ
アドラー:この姿は本来の人間の姿ではない、人間は仲間である

仕方ない、で終わらない。
“これからどうするか”を考えていく。

□安土羅診療所(安土羅先生と訪問者の寸劇)

安土羅診療所のチラシ、『人は変われる』『世界はシンプルである』『誰もが幸福になれる』と記載されているもの、を突き出して、

女子高生「『人は変われる』『世界はシンプルである』『誰もが幸福になれる』なんて、あまりにもふざけていると思って。社会も人間ももっと複雑なものだと思います」

安土羅先生「世界が複雑なのではなく、あなたが世界を複雑にしているとしたらどうでしょう。問題は世界が複雑かどうかなのではなく、あなた自身がどうかということなのですけどね」

「人は客観的な世界ではなく、自らが意味づけをした主観的な世界に住んでいる」byアドラー

ひきこもっているお兄ちゃんの話
女子高生「いじめとか受験の記憶とかいろんな理由があって外の世界に出られないでいるの。それなりの原因があるんだから」

安土羅先生「あらゆる結果の前に原因があるという考え方がおかしい。
過去の原因からではなく、今の目的から考えることだ。
お兄さんは、不安だから外に出られないのではなく、外に出たくないから不安という感情をつくりだしているのではないのかな。
人生はすべてあなたが決めているのですから」

□今の寸劇でのキーワード

1. 意味づけを変えれば未来は変えられる

→“みんなが同じ世界に生きている”と思ってしまう。
しかしそうではなく、それぞれの人が“自分が意味づけした世界”に生きている。
同じ体験をしても、感じ方は人によって異なる。
“意味づけ”によって世界は全く変わってくる。
我々が過去の経験にどのような意味を与えるかによって、自分の生を決定している。
トラウマは、それが自分の人生に大きな影響を与えた出来事だと意味づけをしているだけ。

2. 原因ではなく目的に目を向けよ

“目的”が自分の人生をつくっている。
未来は自分で決めていける。

 

■ライフスタイルとは
・自分のことを自分がどう見ているか(自己概念)
・他者を含む世界の現状についてどう思っているか(世界像)
・自分および世界についてどんな理想を抱いているか(自己理想)

一般には、“性格”という言葉で表現されているもの。
しかし“性格”という言葉は、持って生まれたもの、変えにくいというイメージがつきまとうため、あえて“ライフスタイル”という言葉を使っている。

“ライフスタイル”はいつでも、今この瞬間にでも変えることはできる、
しかし我々は“ライフスタイル”を変えない決心をしているのだ。

アドラーは言っている。

□“ライフスタイル”を変えるためには、

1. ライフスタイルを意識化する
2. どんなライフスタイルに変えていけばいいかを知る

「3日あれば人間は変われる」

 

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  • 第2回「自分を苦しめているものの正体」

ずばり、劣等感。

■劣等感とは
今より優れた存在になりたいと思って生きている人間のあり方=“優越性の追求”

「すべての人を動機づけ、
われわれが、われわれの文化へなす
あらゆる貢献の源泉は、優越性の追求である。
人間の生活の全体は
この活動の太い線に沿って
すなわち、下から上へ、マイナスからプラスへ、
敗北から勝利へと進行する」byアドラー

“優越性の追求”≠“劣等感”

うまくつかえば生命の原動力になる。

劣等感は“思い込み”かもしれない。
身長も年収も、他者との比較の中で生まれた主観。

劣等感を持つには目的がある。
劣等感に苛まれて自分のことが好きになれないという人は、そういう自分をあえて選んでいる。
自分のことを好きになり自信を持ってしまうと、対人関係の中に入っていかなくてはならなくなる。
人と関わると傷つくこともあるから、そこを避けるために劣等感をつくりだしている。

ここでいう劣等感は、他者との比較ではなく、自分の中の問題。
理想の自分と現実の自分とのギャップ=劣等感

 

■過度な劣等感、劣等コンプレックス
他者との比較で生まれる劣等感

AであるからBできない
例:不細工だから、彼女ができない

AとBに因果関係はないのに。
=見かけの因果律

劣等コンプレックスとは、見かけの因果律を立てて、人生の課題から逃げようとすること。

 

■過度な優越感、優越コンプレックス
・自分を実際よりも優れているように見せようとする
(学歴を誇示する人、高価なブランド品を持ち歩く人、過去の自慢話ばかりする人)
・他者からどう見られているかを非常に気にする
・自分で自分についての理想を高くしようとする
(自分に価値があると思いたい人、高い目標に向かっている自分自身に酔いたい人)

優越コンプレックスは、劣等コンプレックスの裏返し。
自分より下に人間をつくることで、自分はその人より上にいると思い安心する。
(いじめ、上司が部下に対する侮辱など)

劣等コンプレックス、優越コンプレックスから抜け出すには、
普通であることの勇気を持つ。
特別よくなろうとしなくていい、特別悪くなろうとしなくていい、
ありのままの自分からはじめよう、ということ。

他人と比べずに自分の能力をあげようとするには、
縦ではなく、平面を歩いているイメージを持つ。
ある人は前を歩いていて、ある人は後ろを歩いているというイメージ。

 

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  • 第3回「対人関係を転換する」

人間の悩みはすべて“対人関係の悩み”である。

死は愛する人との別れ、と思うと対人関係。
孤独も他者がいればこそ思うこと。

 

■対人関係の悩みの一例
すべての行動には相手役がいる。
相手役を敵だと思う人の多くは、自分は世界の中心にいるという考えを持っている。

典型的なケースが広場恐怖症
家にひきこもって外に出られない神経症の一種。

みんなから見られることを怖れているように見えるが、
実はその逆で、みんなから注目されて世界の中心でいたいと思っている。

外に出てしまうと、自分が多数の中の一人でしかなくなってしまう。
それを怖れて外にでないようになってしまう。

そんな人の多くは、幼いころ甘やかせて育てられた。
他者が自分に対して何をしてくれるかにだけ注目する大人に育ってしまう。
いつも注目されたい人間に育ってしまう。

 

■承認欲求とは
承認欲求が強くなった理由のひとつは賞罰教育。
ゴミを拾うとき、誰かが見ていてくれていたら拾うが、誰も見ていなければ素通りする小学生。

褒めて育てても、叱って育てても、
これからする行為が適切か自分で判断できない子になってしまう。
顔色をうかがって、叱られそうだったらやらないし、褒められそうだったらやりたくなくてもやるようになる。

承認欲求が強い人は、子育ても介護も大変になってしまう。

人生は、生きること全般はギブ&ギブだと思うこと。
自分の行為の価値が自分でわかるため、承認されなくてもよくなる。

 

■課題の分離
降っている雨を避けることはできるが、雨を止ませることはできない、というたとえ。

娘の進路は娘の課題。
親の課題ではない。

課題とは、そのことによって最終的に誰が困るのかということ。

“涼しい”親子関係。

課題の分離は対人関係の入口。

自分の人生を生きる勇気は、幸せになる勇気

「人間は自分の運命の主人公である」

 

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  • 第4回「『自分』と『他者』を勇気づける」

人間の最終的な幸福「共同体感覚」

自分自身の幸福と人類の幸福のためにもっとも貢献するのは共同体感覚である。

人は誰でも幸福になれる。
ではそのために我々は何をすべきなのか。

アドラーがたどり着いた、幸福になる方法に迫る。

「共同体感覚」は対人関係のゴール

人は、弱さ、欠点、限界のためにいつも他者と結びついているのである。

他者を仲間とみなし、そこに自分の居場所があると感じられること=共同体感覚

生きる喜びや幸福は、他者との関係からしか得ることができない。
そのためには、
自己への執着→他者への関心にする必要がある。

人生の意味は、全体への貢献である
全体=他者

共同体感覚=人は全体の一部である。全体とともに生きている

□共同体感覚のために必要なこと

1. 自己受容
ありのままの自分を受け入れる
大切なのは、何が与えられているかではなく、与えられているものをどう使うかだ」
臆病ではなく、慎重。
記憶力が低いではなく、忘却力が高い。
と考える。

2. 他者貢献
自分が何らかの形で“貢献”していると感じられるとき。

3. 他者信頼
他者に貢献するには、他者を仲間だと思わないと信頼できない。

 

■勇気づけと勇気くじき
幸せになる勇気と嫌われる勇気は一緒。

勇気くじきとは
できないこと、だめなことばかりを指摘する。
理想の子どもや部下をイメージし、現実の相手をそこからの引き算でしか見ない。

勇気づけのためには
勇気を持っている人は、課題に立ち向かっていける気持ちになっている。
そのための援助が勇気づけ。

共同体への貢献感を感じられる

自分に価値があると感じられる

勇気が持てる

この道筋を援助することが、勇気づけ。

キーワードは「ありがとう」
「よくできたね」「偉かったね」という褒めるではなく。

“褒める”とは、上から下に向かって下す評価
“叱る”も同じ。

叱らない、褒めないの根本にある考え方は、
あらゆる対人関係は、対等な横の関係である、ということ。

親と子も、上司と部下も、対等。

「君たちは君たちの人生の主人公なんだから、思い通りに生きればいいんだよ」

自分を嫌う人がいるということは、
自由に生きている証し

「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」

いわゆる一般的な人生の意味なんてものはない。
いい大学に入って、大企業に就職することが成功なんだという考え方は一部の人間にしか当てはまらない価値観。
どんなに困難な状況にあっても、自分の人生の意味は自分で決めることができる。

 

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感想。


優越コンプレックス
承認欲求
広場恐怖症

あたり、特にぐさりぐさりきました。

注目されたい
多数の中のひとりでありたくない
その人が何をしてくれるかにだけ注目する

まさに。

この行為とかまさに。

まずは、
人生は、生きること全般はギブ&ギブだと思うこと。

 

第1回目の放送で岸見さんが
「個人の人生はもとより世界が変わる」
って言っていて、
いやいやいや。
すごい大きなこと言いましたねって。
そんなことありえないでしょ。
って思ったのです。

 

が。

 

100分終わってみて、
これ、世界変わるんじゃない?
って思いました。結構本気で。

発展途上国の援助とか考えるときに必ず言われること。
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」
ということ。

その言葉、考え方って、なにも発展途上国に対する援助だけに当てはまる話じゃなくて、ひとりひとりの人生を考えるときにもあてはまるよなあって。

お金がなくていわゆるホームレス生活を送っている人
人が怖くてひきこもっている人
会社内の関係が嫌で職につかない人
いじめられている人
いじめている人
孤独を感じている人

とか。

いわゆる社会的弱者とかかわいそうな人。
いわゆる社会問題と言われているものの中にいる人。
だれかが手をさしのべてあげないといけない、と思われている人。

そういう人たちがそういう人たちたる理由って、
そういう人たち自身にあるんじゃないかなって、
かなりきびしい言い方かもしれないけれど。

全人類がアドラー心理学を理解して、
自分のものとして、自分の言葉で落とし込むことができたら、
世界変わるかも。

 

アドラーってすごいなあ。
まだこの番組だけの情報しか入っていないですけど。
それにこの番組の内容も完全に理解したかというとそうでもないですし。
他の著書も読んでみます。