むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

スーパーは地域の情報の宝庫だと思った話

最寄りのイオンで買い物をして、併設されているやきとり屋さんでやきとりを買う、いつも通りの日常。

やきとり屋さんに並んでいるのは父親。

その後ろ姿を通路の向こう側でぼーっと見ている私。

 

父親の前に並んでいるのは、70代後半から80代くらいの女性2人。

どうやらお友達のよう。それぞれ1本ずつやきとりを購入している。

列は右から左に並んでいて、もう少し左に目を向けると、同年代くらいの女性があと2人、併設されている小さなイートインスペースのような場所でお店を広げている(最近はもう言わない?)。

並んでいた2人も合流して、楽しそう。元気だなあ。

皆さま、一人暮らしだろうか。

元気そうだけれど、ちょっと耳通そうだな。

重い荷物持ってお家まで帰るの大変そうだな。

 


そんな光景をぼんやり眺めていて、ふと。

 


ここに、たとえばちょっとしたお困り事とか相談事とか気軽に聞いてくれる人とかいたら、地域の色々な問題の解決に役立ちそう、と思った。

市民センター的な、市役所の福祉課の派出所的な。

 


スーパーは、日常。

近くに暮らしている人、地域の人たちは利用する。毎日か、何日かに1度か。

毎日ここにいたら、顔見知りになったり、相手は知らなくても、こちら側はだいたいの家族構成とか、たとえば購入したものでなんとなくの生活感とか、わかる。

その、スーパーのレジとかの店員さんが把握している情報を、たとえば福祉の専門の人に共有したりできれば、地域の問題を未然に防いだりすることができるのではないか、と思った。未然に防いだり、必要な情報が届いていない人にこちらから働きかけたり、孤立している人に手を差し伸べることができたり。

たとえば、毎週火曜日に来ている高齢の女性が、最近来てないね、と思ったら、それをたとえば市の職員に伝える。

30代くらいの、いつもお惣菜の値引きになったものだけを買っていく女性、いつも疲れたような、少し虚ろな目をしている。もしかしたらシングルマザーとか貧困状態にあるかもしれない、とか。

個人情報の問題とか、思い込みや勘違いの問題とか、まあいろいろハードルはあると思うけれど、スーパーって、地域の暮らしに関する情報は集約されている場所のような気がしていて、まだまだできることはあるんじゃないか、と思った。

声を上げられない人、どこに相談したらいいかわからない人、頼れる人がいない人、情報弱者の人とか、従来のやり方では見つけることが難しかった人たちにアプローチできるかもしれないな、と。

 


やきとりを食べながら、これってスーパーじゃなくて、もっと小さな単位というか、コンビニってもっと地域密着だよな、と思った。

コンビニ、ありかも。

ありがとう、中禅寺湖。

9月は、優しい。
そういえばはじめてここに来たのも9月だったな。3年前。

 

あと1週間。
前に佐渡から帰るときみたいに、しゃれた感じで文章書けないかなってここ数日考えているけれど、言葉が出てこない。最近読んでないもんな。「文学は、乱読からはじまる」って、cow booksのインスタが言ってたし。まあ文学なんて崇高なものじゃないんだけれど。

 

辞めなくてもよかったのかもしれない。
人との関わり方、過ごし方、その先の話。
自ら変えることは、きっとできた。
活かすことはできた。はず。
けれどそう思うのは、辞める、という選択をしたからこそ見えてきたもので、皮肉なものだと思う。
色々と、将来のこととか、大きなこととか、頭をよぎる。たぶん、大事なこと。
計画を立てて、逆算して、ひとつづつ。
そんな風にちゃんとできていれば、きっと今はここにはいない。
うまくできなかったから、ここにいる。
大切にしたかったけどできなかったたくさんのこと。
それでも出会えた、関わり続けたいと思える人や場所。今、自分ができること。
たぶん、これだけは譲れないもの。
想像した未来に、ワクワクするか。
それだけな気がする。
この人と一緒に働きたい、と思える人の近くで、できることを積み重ねる。

 

なんだ、はじめからあったじゃん。
そういう環境にいたじゃん。

 

失いたくないもの。
これからはもう見失わない。

 

人と関わるということの難しさを教えてくれた。
人と深くつながれる喜びを教えてくれた。
夜と朝のあいだのうつくしさを教えてくれた。

 

ありがとう、中禅寺湖
もうすぐ、満月。

一隅を照らしたい

 

「なに考えてるの?」

「いや、何も」

「なんかいつもぼーっとしているようで何か考えているような、遠くにいるような感じがする」

「いや、ほんと何も考えてなかったよ今は」

 


いまの世の中はちょっとこういうところがおかしいよな。

こんな風になったらいいな。

その実現にむけて小さくてもいいから行動していたいな。

 


深く掘れば掘るほど、遠ざかっていく感覚。

 


私が関わりたいのはこういうことかもしれない!そのためにはこのスキルを身につける必要がある。こういう仕事に就こう。

 


次の日にはわからなくなっている。

本当は、別に特定の誰かに対してとか、無いのかもしれない。無いんだと思う。

「これです」と言葉にした瞬間に、もうそれではなくなっている感覚。

 


確実なことは、

おもしろい人とおしゃべりがしたいということ。

誰かが作ったごはんを誰かと食べたいということ。

触れるもの、感じられるものを大切にしたいということ。

ちゃんと自分の言葉で理解したいということ。

聞こえてくるSOSに、自分ができることをできているという実感があること。

違和感と向き合うこと。

 


たぶん、これでぜんぶ。

ただ、目の前の人をあたためたい。それだけ。

建物は残せなくても、ものがたりは残したい

大磯散歩。

不動川に沿って、旧東海道を少し。
立派なお家とか古いお家とか多い。建物は新しくなっていてもものすごく立派な門構えは残っていたり。
きょろきょろしちゃう。じーっと見ちゃう。
不審がられないようにほどほどに。

 

もう何回も何十回もいや百回以上?使っているバス停と、うちのあいだの空間。
ふだん通る道を一本入ってみるだけで、別の地域に来た気分。たのしい。
旧東海道沿いだから新旧まじりあっている感じもたまらない。なぜここに道祖神が。現代というベールに覆われた中からきらりと光るお宝を探し当てるような。価値があるかどうかはわかりません。

 

それにしても、空き家(たぶん)、ちらほら。
むかしからのお家だったらきっと、建具とか、装飾とか、意匠をこらしてあるんだろうなあとか、どんな人が住んでいたんだろうか、きっとそれなりに裕福だったからお客さんとかも招いていたんだろうし、そうなるとやっぱり内装はこだわっていたんだろうなあとか、もしわたしが億万長者だったら全部の空き家買い取って保てるようにしたいけれど、残念ながらそれは夢物語。
壊されてしまったり立て直されてしまう前に、せめて、この建物が歩んできたものがたりを、残したい。というか知りたい。地元のことだし。
不動産屋さんに聞いたら見せてくれたりするのだろうか。
地元の観光協会の人とか?つながりつながり、で何かひらけそう。
空き家問題とのわたしなりの向き合う方法。

 

なんてことを、歩きながらぐるぐると。
やっぱり散歩はいい。

つながりなおす

「コミュニティづくり」に興味があるんですか?

半月ほど前、とある場所の説明会で出会った人からこう問われたことを思い出した。

 

コミュニティとは
英語で「共同体」や「地域社会」を意味する語。
そこから、いまはもっと幅広い意味合いで使われるようになっていると思う。

 

コミュニティをつくる
というより、
つながりなおす
というか。
コミュニティという言葉を使うなら、
コミュニティをつくりなおす、というか。
うーん、つくるってちょっと違うような。
なおす、希薄になっているものを結びなおす、みたいな。

 

地域の困っている人
ちょっと子どもの面倒を見てほしいと思っている人
買い物に行くのは大変だけどちょっと牛乳がほしい人

 

わざわざ”福祉”とか”介護”とかいわなくても、ああじゃあちょっと買ってきますよって、面倒みときますよって、それだけで解決することって実は結構あるんじゃないかと思う。
介護士じゃないからお年寄りのことは助けられないのだろうか。
保育士じゃないから子どもの面倒を見ることができないのだろうか。
”役割”がないと何もできないのだろうか。
最近読んだ本にそんなようなこと書いてあったような。

 

日々、暮らす中で、生きていく上で、ちょっとした困りごと、悩みごと、何でもないこと、それを、人と人がつながりなおすことで解消していく。
そんなイメージ。
それを、やっていきたい。

 

希薄になってしまったのはいつからなのだろうか。

世の中の何に反応するか

おかしいな、不思議だな、と思う。

 

1泊1人50000円する宿に泊まってふかふかのベッドで眠ることができる20代。
今晩安心して眠れる場所すらない20代。

 

努力してこなかったから?
根性が足りなかったから?

 

運も実力のうち、とか言うけれど、
個人の努力ではどうにもならないことの方が
世の中にはきっと多い。

 

「重要なのは、いまを全力で生きること。いま何をするか」

ヒデが言っていた。

 

「世の中の何に反応するかということで、

その人の生き方そのものが表現される」

阿久悠が言っていた。

  

おかしいな、と思うことから目をそらさないで、
自分ができる小さなことから行動する、
そんな風にして生きていきたい。
そういう人で私はありたい。

 

「ワーク・ライフバランス」のライフを優先する生き方は理想論なのだろうか

「ワーク・ライフバランス」という言葉がある。
ワークが先で、ライフが後。
まずはしっかりと働く。安定した仕事に就く。やりたいことをやる。
それから、ライフの充実。
土日の休みもアクティブに。恋人をつくってたのしく。リゾートに温泉旅行に。
ワークもライフも充実。
これが「ワーク・ライフバランス」。

 

安定した仕事に就く。
やりたいことをやる。
安定した収入を得る。

ここのステージのラスボスは手強い。
クリアしなければ次のステージ、ライフの充実には進めないけれど、かなりのHPを消耗してしまう。
ああ、遠いライフステージ。
気づけば何年の時が…。

 

発想を逆転させてみよう。

 

「ライフ・ワークバランス」
ライフが先で、ワークが後。
まずはライフの充実。
どんな風な暮らしをしたいかをまず考える。
考えて実行する。
もちろん恋人、パートナーも大事。
暮らしへの価値観が似ているなら、きっと円満。

 

そのうえでの、ワーク。
考える基準は、理想のライフを補えるかどうか。
ワークのためにライフを犠牲にするなんてしない。

 

そのために必要なことは、足るを知ること。
自分にとって、豊かに生きるために欠かせないものは何かをわかっていること。
逆に、それさえわかっていれば、何もむずかしいことはないような気がする。