むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

高杉晋作について考えてみた

高杉晋作


といったらなにが浮かんできますか。

幕末になんか活躍した人
「おもしろきこともなき世をおもしろく」って言った人
奇兵隊ってものをつくった人
長州藩の人

といったところでしょうか。

高杉晋作
今、大河ドラマ「花燃ゆ」では、高良健吾さんが演じています。なかなかかっこいいです。
2010年の大河ドラマ龍馬伝」では、伊勢谷友介さんが演じていました。伊勢谷さんは「花燃ゆ」では吉田松陰役を演じていますが、どちらもかっこいい。

 

高杉晋作
彼は27歳でその生涯を閉じます。現代から考えすぎると、若すぎます。
坂本竜馬のように暗殺されたわけではなく、病死です。
もともと、体は強い方ではなかったようで。
でもその短すぎる生涯に、これでもか!というくらいのできごとが凝縮されているのです。

 

高杉晋作ってどんな人?
と聞かれて、答えるとしたら、
「このまま乗っていれば快適でなんの苦労もなく保障された将来に行ける電車に乗っていたのに、わざわざ極寒の外に飛び降り、自分の足で進みたい方向に進んでいった人」
とでも言いましょうか。

初代内閣総理大臣である伊藤博文は、高杉晋作についてこういっています。(結構有名)

動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや

意味:動けば雷電のようで、言葉を発すればまるで風雨のようである。多くの人はただただ驚き、あえて正視する者すらいない。これが我らが高杉晋作なのである。
(伊藤博文高杉晋作は小さいころからの付き合いで、高杉晋作伊藤博文にとって兄貴分的存在だったそうです)

周囲の人たちが思いつきもしないような、考えもしないような、まったく別世界からきた人ですか?と思うような発言、行動をするような人だったのでしょう。

でも、歴史上の人物はおおにして、そういう人が多いような気がします。
その時代では「あんた頭おかしいんじゃないの?」と思われるようなこと、言ってみれば「非常識」なことをする人が、結局時代を大きく動かしたり、ものすごい影響を与えたりするものだなあと。
坂本龍馬とか、吉田松陰とかもそうですよね。
幕末ではないですが、日蓮なんかもそうです。
日蓮は世間からそうとう憎まれ恨まれ非難され、何度も命を狙われました。

でも彼らはただ、その頃の人々からしたら「おかしなこと」をやっていたわけではありません。彼らには、過去から学ぶ力があり、先を見る力があり、自分たちの行動が絶対に自分たちの国のためになると信じていたからこそ、周りからなにを言われようと、信じた道を歩み続けたのです。

そういう生き様って、本当にかっこいいと思います。

 

ちょっと脱線しました。
話を高杉晋作に戻して。

 

彼は1839年9月27日、長州(現在の山口県)の武士の家に生まれます。
高杉家は身分が相当高く、戦国時代の毛利家のころから代々藩主にお仕えする家臣のお家、そこの長男として生まれます。
つまり、生まれたときから、将来はお殿様の側近として活躍する場が与えられていたというわけです。
なにもしていなくても、周囲からは一目置かれる存在。
ほかの人、例えば下級武士や商人、百姓から見れば、それはそれはうらやましいご身分だったでしょう。
高杉晋作自身も、お家のことや身分のことは誇りに思っていました。
でも心のどこかで、「おもしろくない、つまらない」という気持ちも抱いていました。
おもしろそうなこと、芸者遊びや三味線などいろいろなことをやりますが、物足りない。
現代でいうと、お金は余るほどあって、みんなからうらやましがられる存在で、毎日キャバクラ行ったりクラブ行ったりして豪遊するけど、なんか心にはぽっかりと穴があいている、そんな感じでしょうか。
そんなときに、吉田松陰がやっている松下村塾と出会います。
松陰との出会いをきっかけに、彼は人生の本当の「おもしろさ」を知るのです。
学問は松陰と出会う前からやっていたこともあり、松下村塾では、久坂玄瑞吉田稔麿入江九一らと共に、「松下村塾四天王」と呼ばれるようになります。
ここで、過去から学び、先を見る目を養っていったのでしょう。

ここで、高杉晋作がやったことを、そのときの年齢と共に書きだしてみます。

 

23歳、英国大使館焼き討ち(1862年)
1853年にペリーが黒船に乗ってやってきてから、日本が外国に乗っ取られるのではないか、このままではまずい、乗っ取られる前に外国人を追い払おう、日本国は天皇のものである!という考え(=尊王攘夷)が盛んになりました。長州藩では、尊王攘夷派と佐幕派が対立していましたが、高杉晋作久坂玄瑞などは尊王攘夷派でした。
1858年に日米修好通商条約(=いわゆる不平等条約)を井伊直弼が強引に締結したことからもわかるように、江戸幕府の考えは「外国とは戦わない、開国する」というものでした。
幕府に対する強い怒り(恩師である吉田松陰安政の大獄で処刑されたため)もあり、外国人は追い払うという考えもあり、仲間たちと共に、品川にある英国大使館を焼き討ちにしました。まあ、若気の至りというところなのでしょうけど、どんな刑罰がくだってもおかしくないくらいのことです。

23歳、武士からお坊さんに転身
英国大使館焼き討ちのときには江戸にいた高杉晋作ですが、さすがに長州藩は彼を放っておくわけにはいきません。江戸にいたらまたいつ何をやらかすかわかりませんから。そこで藩に帰ってくるようにと命令がくだります。すると、帰ってきた高杉晋作は突然、「山にこもります」と言い出し、お坊さんになってしまいます。

24歳、奇兵隊を結成、初代総督に
高杉晋作が山にこもったあと、藩は尊王攘夷派が優勢になり、外国人を追い払うために関門海峡を通る外国の船に大砲を打ち込みます。
が、打ち込んだ後、あっという間に報復されてしまいます。(下関戦争)
困った長州藩は、山にこもっていた男を呼び戻します。
呼び戻された男、高杉晋作は、外国艦隊からの防備のために、身分に関係なく農民百姓商人誰でも兵隊になれる「奇兵隊」を結成すると言い出し、その総督になります。

24歳、下関戦争の講和条約使節に任命される
江戸幕府(一応日本の中心)の意見は開国、外国とは仲良くやっていこうという考えなのに、西の端の方で勝手に外国船に大砲を打ち込んだりしている藩がいると、長州藩は幕府からにらまれます。その頃京都で長州藩は公家と仲良くやっていたのですが、幕府の手下である薩摩藩会津藩に京都から追放され、京都の池田屋では尊王攘夷派の長州藩士たちが、幕府の手下の新撰組に襲撃され、悔しいので軍を率いて京都に仕返しに行ったら、逆に返り討ちにあい、しまいには大量の幕府軍が長州に攻め寄せてきました。(第一次長州征伐)
さらに追い打ちをかけるように、外国からもこの前はよくもやってくれたなと、仕返しされます。
このままでは藩がなくなってしまう…
困った長州藩は、再びあの男を呼び出します。(この頃高杉晋作は、藩に無断で京都に行ったとして脱藩の罪で投獄されていました)
高杉晋作は藩に任命され、外国との講和条約使節として会議に出席することになりました。(留学経験のあった伊藤博文が通訳として同行)
講和条約といっても、長州藩は負けたも同然。長州藩にとって不利な条約が結ばれることは目に見えていました。
が、ここで高杉晋作は、烏帽子直垂姿という威風堂々とした姿で出席し、なんと古事記の講義をはじめたのです。「むかし、イザナギイザナミが出会いこの地をつくり…」と。もちろん外国人大使は全員ぽかん状態です。さすがに通訳として同席していた伊藤博文も、高杉さんは頭がおかしくなってしまったのかと思いました。
実はこれは高杉晋作の狙いで、古事記を伝えることにより日本はいまだかつて他国に支配されたことはない、と伝えることと、相手にとってはわけのわからないことを延々と話すことで、条約締結をうやむやにしてしまおうという魂胆があったようです。結局、内容のひとつであった島の所有権は譲らずに済みました。
すごい行動力というか発想力というか。

25歳、クーデター決行
講和条約締結により、対外国との件は一件落着。
残るは対幕府です。
藩の意見がころころかわる長州藩。この頃は佐幕派が優勢でした。
尊王攘夷派であった高杉晋作は、藩の意見を尊王攘夷にするべく、クーデターを起こします。
しかしこの頃はもう、松下村塾時代の同士はほとんど、池田屋事件や京都での争いの中でいなくなっていました。高杉晋作の呼びかけに応じたのは、伊藤博文奇兵隊の一部の人間などわずかな数でした。数にして約80人。
一方の佐幕派は約2000人。
80人vs2000人という、数だけでは圧倒的不利な状況でした。
が、日和見していた人々が徐々に加勢し、クーデターは成功。藩の意見は尊王攘夷となりました。

その後、第二次長州征伐の際には海軍総督として、幕府の船を沈めることに成功し、長州藩も勝利をおさめます。

27歳、永眠(1867年5月17日)
それから高杉晋作は肺結核を患い、療養しますが、大政奉還を見ることなく、目指した新しい世を見ることなく、27歳でこの世を去りました。

高杉晋作、辞世の句(超有名)
「おもしろきことのなき世をおもしろく」

この言葉からはこんな思いが伝わってきます。

あのまま、将来が決まったおもしろくないレールの上を走っていたら、
おれの人生、本当につまらなかっただろうな。
あのとき、決められたレールから脱線して、本当によかった。
おかげで、超おもしろい人生だった。と。

時間にしてみたらとても短いですし、
目指してきた世の中の実現を見ることができなかったという部分では、
まだ生きていたかった、という思いもあるのではないかと思います。

でも、この言葉からは、

生ききった。もう悔やむことはなにもない。

そう、言っているような気がします。

それはきっと、自らの意志で選んで進んだ人生だったから。
その選択をした人間にしか味わえない、おもしろさ。
味わってみたいですね。