むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

人生の1/4、一区切り

ずっと”自分”を探してきた。
”自分”は何者なのか。
何が好きで何が嫌いで、どう生きていきたいのか。
自分の心地よさを探し求め続けてきた。
わからないことが不安だった。恐れだった。
うまく言葉にできないことが、伝えられないことが、嫌だった。
自分への自信が欲しかった。
私はこういう人間です、という自信、胸をはれること。
それは、私にとって、何かをつくった、成績をあげた、表彰された、合格した、とかいう目に見えるものではなくて、私自身が私に自信を持てるということだった。
自分が自分に自信を持てることが、胸をはれることだった。
そのための25年間だった。
(まあちゃんと向き合って考え始めたのは大学生のときくらいからだから、8年間くらいだけれど)
人と比べない、ありのままの自分を好きだと思えること。

 

今、満足している自分がいる。
人を見てうらやましいなとかじゃあ自分はどうなんだとか考えることはしょっちゅうあるけれど、そのことは自分にとって良い方向に働いている。自分はこういう人間だということがある程度わかるようになってきた。好き嫌いも。
目に見える何かを成し遂げたわけではない。何もない。
社会的に評価できる実績もない、キャリアも積んでいない、名前のある企業での勤務経験もない。
はたから見たら、なにもない。
大多数の共通言語になるようなものは何もない。

 

でもこの25年間は、私にとってはすごく価値のある25年だった。
私には、この25年間が必要だった。

 

私は泣き虫だった。
数学の問題が”わからない”と、わかりません教えてください、という言葉より先に、涙が出てきた。
「あなたはどう思っているの?」と言われると、言葉より先に涙が出てきた。
相手に何を言われるのかと、いつも怯えていた。
自分が選んだ選択も、勉強していることも、活動しているNPOのことも、全部自信がなかった。
「どうしてやっているの?」「それってどういうこと?」
そういう質問が怖かった。

 

発言することが苦手で、何かを言うときには前もって周到な準備をしておかないと不安で、でもレポートや手紙、ブログなどでは思っていることを書くことができた。
だから、うまく伝えられそうにないときは、書いた。
書いて、渡した。

 

「普段話している様子と、ブログの感じが、まったく一致しないね」
「あなたの書く文章は難しすぎる。なにを伝えたいのかわからないよ」

 

レポートは褒められた。
でも、手紙やブログは、こんなふうに言われた。
自分でもわかっていた。
飾っている感じがした。背伸びしている感じがした。嫌だった。
自分らしい言葉って、自分らしい文章って、なんだろう。
どうしたらありのままの自分の文章が書けるだろう。

 

本をたくさん読んだ。
言葉をたくさん知った。
自分の想い、考えと向き合い続けた。

 

自分が思っていることを、言葉にして発することができるようになってきた。
飾らない、背伸びしない文章が書けるようになってきた。

 

自分に自信が持てるようになってきた。

 

そんなことに25年も、と思う人もいるだろう。
私も、そう思う。
でも、私はこういう人間。
回り道して、たくさんの人に迷惑をかけて、”自分らしさ”を探し求め続けてきた。
そうせざるにはいられなかった。
ジコチュー人間。

 

今、自分らしくいられている。
好きなもの、嫌いなもの、心地いいもの、よくないもの、わかる。
どんなに揺すられても、この位置に戻ってくる。
忘れても、忘れない。

 

だから、自分の心地よさを求めるフェーズは、終了。
自分を守るフェーズは、終了。

次のフェーズへ進むとき。