むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

高畑勲監督の「予言」について

2018年4月5日に亡くなった、アニメ監督の高畑勲氏。
高畑氏への追悼として、4月13日に放送された代表作「火垂るの墓

 

私は観ませんでしたが(部屋にテレビを置いていないのです)、放送終了後、ネットにあがっていた記事を見てびっくりしました。
そして、その数日後に、この話題に関して、高畑勲監督が「予言していた?」という記事があがり、放送終了後のびっくりとはまた違う角度でびっくりしました。

 

自己責任論「予言」した高畑監督 30年前、「火垂るの墓」公開当時:朝日新聞デジタル

(朝日新聞https://digital.asahi.com/articles/DA3S13462435.html)

 

監督は「心情的に清太をわかりやすいのは時代の方が逆転したせい」と語る。清太の行動は現代的で、戦争時の抑圧的な集団主義の社会から「反時代的な行為」で自らを解き放とうとしたと、観客が共感できると考えていたとうかがえる。一方で、こう続ける。

 「もし再び時代が逆転したとしたら、果(はた)して私たちは、いま清太に持てるような心情を保ち続けられるでしょうか。全体主義に押し流されないで済むのでしょうか。清太になるどころか、(親戚のおばさんである)未亡人以上に清太を指弾することにはならないでしょうか、ぼくはおそろしい気がします」

(前出URL内より引用)

 

火垂るの墓」の公開が1988年。
今、2018年。
30年経ちました。

 

全体主義
個人主義
自業自得
自己責任

 

「清太を批判する人の気持ちがわからない!」
「ひどすぎる!」
「人じゃない!」

なんて風には思わなくて、逆に、よくわかります。

「もうちょっと我慢していればよかったのにね」
とか、
「まあ自己責任っちゃ自己責任だよね」
とか、思います。思ってしまいます。

でも、これって、”正論”なんですよね。
正論というか、理想というか。

 

「我慢しろ、現実を見ろ、と冷淡な意見が多くて驚いた」と映画ライターの佐野亨さん(35)。戦争で理不尽な状況に追い込まれた、弱者であるはずの清太の問題点を強調する風潮が気になった。

(前出URL内より引用)

 

なんでこういう意見が多いのかな、って考えてみたんです。

 

今って、みんな必死なんだと思うんです。競争社会。弱肉強食。
ここのところ10年くらい。
良い面を見れば、古い慣習やしがらみにとらわれず、自分の好きなように、やりたいように、生きることができる、超ハッピーで超楽しい時代。
自分の好きな事だけして生きていくという、自己中心的考え方が、一昔前まではジコチューとか言われていた考え方が、大歓迎されている時代。ジコチュー最高!みんなジコチューになろう!って。

逆に、ジコチューにならないと、自分で自分の力で生きていかないと、置いて行かれちゃうよ、死んじゃうよ、終身雇用はないよ、安定はないよ、っていう時代。
やりたいことがあって、行動力があって、バイタリティがあって、勉強熱心で、そういう人たちにとっては最高の時代。

 

でも、全員が全員、自分のやりたいことをやって生きていく!強さをたくましさを持っているかというと、そうでもないと思うんです。
控えめな性格の人もいるし、ひとつのところにじっとしていたい人もいるし。
自分はそういう性格だから、と割り切って、その人なりの安定の場所なり安心できる場所なりを見つけられている人は大丈夫だと思うのですが、そうじゃない人にとっては、まだもがいている人にとっては、いまの時代ってそうとうしんどいんだろうなあと思うんです。

 

現状維持は衰退!
とか
変化しない、できない人間はダメなやつ!
とか

 

自分のやりたいことがあって、それをやっている人もしくはそこに向かって頑張っている人=◎

自分のやりたいことがわからない、もしくはやりたいことはあっても違うことをやっている人=×

 

みたいな風潮、あると思うんです。

必死に生きないと、ダメ、みたいな。
やりたいことやらないと、ダメ、みたいな。

そうしないと、置いて行かれちゃうから。
ダメなやつだって、レッテル貼られちゃうから。
というか、生きていかれなくなっちゃうから、金銭的に。(ここ正直一番しんどいですよね)

 

みんな、必死なんです。
だから、もがくことをやめた(ように見える)人間とか、置いて行かれてしまった人間とか、甘えている(ように見える)人間とかを見ると、嫌悪感を抱いてしまうんです。
あいつらは負け組だ、って。
自分は、いま必死にもがいている。踏ん張っている。
でも、あいつらはもがくことをやめた人間、諦めた人間。それはあいつらが弱いから、自己責任。
どうしてそう思うかって。
それは、自分たちがいま踏ん張ることをやめてしまったら、自分たちも”あちら側”に行ってしまうということがわかるからなんだと思うんです。
こうはなりたくない、俺はあいつらとは違うんだ。
そう思うことで、そう思わないと、踏ん張れない時代なのかもしれないと思うんです。

 

自分の身の安全も確保されていないのに、他人の身を案じる事なんて、よっぽどの聖人君子じゃない限り、難しいですもん。

 

今回のことで清太を責めた人たちは、別に非道な人間でもなんでもなくて、今の時代を必死に生きようとしてもがいている、ちょっと今は余裕がなくてほかの人のことは考えられないけれど、っていう、まっとうな人たちなんだと思うんです。

 

はたして私は、ふだんから、”現代の清太”を責めたりしていないだろうか。
清太を責めた人たちを責めたりしていないだろうか。