むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

20代(女)が思ったことをつらつらと書いていくブログです

黒船来航と生麦事件

BS11で毎週水曜日20時放送の番組。
尾上松也の古地図で謎解き

2017年1月18日放送
江戸幕府崩壊への序章~黒船来航と生麦事件~」

黒船来航と生麦事件
江戸幕府崩壊の要因となった事件の謎に迫る。

 

〇番組の内容

 

黒船来航

案内人
横浜開港資料館
横浜都市発展記念館 副館長
西川 武臣氏
長年黒船来航を研究してきたスペシャリスト。

 

ペリー率いる艦隊がやってきたのは、1853年7月。
場所は、久里浜
アメリカ海軍マシュー・ペリー(当時58歳)
彼が乗っていたのが、サスケハナ号。
当時では世界最大級の戦艦。
1隻に約300人乗船可能。

 

黒船がやってくることを、幕府は実は1年前から知っていた。
しかしその情報を幕府は公にしなかった。

 

なぜ1年前から知っていたのか。
「オランダ風説書」というもののおかげ。
江戸幕府は、交易を許していたオランダに対し、定期的に世界情勢を報告させる義務を課していた。
それにより幕府は世界情勢を把握することができていた。

 

なぜ情報を公にしなかったのか。
知っていたのは、幕府の中枢の人物と、一部の大名のみ。
仮に公にしてしまうと、幕府が戦い撃ち払ってしまえという気運が高まるのは明らか。
江戸幕府で実質的なトップの地位にいた老中阿部正弘は、海外列強の圧倒的な軍事力と、弱体化した幕府の財政、そしてアヘン戦争の情報もあり、戦うのは得策ではないと考え、公にしなかった。

 

ペリー来航の背景
19世紀、産業革命
工業製品を売りたいと考えた西欧諸国。
市場として狙いをつけたのが、アジア。

 

ペリー来航の目的
二国間貿易を行うこと。
ペリーは、アメリカ合衆国フィルモア大統領からの国書を渡し、1年後にまた来ると予告し帰国した。

 

老中阿部正弘は、ペリーから受け取った国書を全国の大名と身分の高い旗本に公開し、意見を募った。
幅広く意見を集めることで、国全体として今後の日本を考えていこうとした。
幕府の威信を落としかねない行為であったが、阿部は幕府の威信より、日本の未来を優先した。
勝海舟も建白書を出している。次の時代を担う人物を見出すきっかけになった。

海に守られた島国で、250年続いていた天下泰平。
それが、海を越えてあらわれた外国の圧力によって揺らぎ始める。

 

そして、ペリー来航から8年後。
尊王攘夷思想の風が吹き荒れる中、起こった事件。
それが、生麦事件

 

案内人
神田外語大学 准教授
町田明広氏

 

生麦事件とは
1862年、東海道沿いの小さな村、生麦。
薩摩藩士にイギリス人リチャードソンが殺害された事件。

東海道を、江戸から横浜方面へ進んでいた薩摩藩大名行列
薩摩藩島津久光は、幕政の改革と自身の参画を狙って江戸へ。
しかし冷たくあしらわれ、とぼとぼ帰国の途についていた。

そこを反対側からやってきたのが、リチャードソンらイギリス人4人。
先頭にいた薩摩藩士らが身振り手振りで馬からおりるように伝えるが、彼らは馬に乗ったまま大名行列の中を逆走し、島津久光が乗っている駕籠の近くまで行ってしまった。
護衛の薩摩藩士たちは大名に危険が及ぶことを避けるため、刀を抜いてリチャードソンを斬りつけた。

 

生麦事件の賠償でもめた薩摩とイギリスは、薩英戦争へ
事件から約半年後、横浜港に入港したイギリス艦隊から賠償請求の書簡が届く。

内容は

幕府への請求
・イギリス政府への謝罪
・10万ポンド(約20億円)の賠償金
薩摩藩への請求
・犯人の逮捕と処刑
・2万5千ポンド(約5億円)の慰謝料

幕府は従った。
しかし薩摩藩は拒否。

 

拒否したというより、拒否せざるをえなかった。

なぜ拒否せざるをえなかったのか。
文書が薩摩藩に届く際、イギリスからの請求内容が、“犯人の逮捕と処刑”から“久光の首”に代わっていたため。

薩摩をよく思っていない幕府の何者かによる陰謀という説もある。

 

その後薩英戦争へ突入。
しかし薩摩は、和平交渉の席でイギリスに対し、武器購入の話を持ちかけ、貿易をはじめた。
その武器が、倒幕の力となっていく。


〇感想


阿部正弘さんは優秀な人物だったんですね。

 

生麦事件の印象が変わりました。
尊王攘夷思想を持った薩摩藩士が斬りつけた話だと思っていましたが(ただの勉強不足)、大名を守るためなら仕方なかったと思います。
刀を抜いて大名を守ることが、護衛としての役目。
逃げたリチャードソンを追ってとどめを刺したっていうのは、一度刀を抜いたら相手を殺すか自分が死ぬかしなければいけないみたいな掟?のためでしょうか。
リチャードソン、郷に入っては郷に従えですよ。

 

文書を書き換えたって陰謀説、ありえますね。
でも、書簡を運ぶ際に何度か書き移されて運ばれるって、手間だったでしょうね。
途中で無くなってしまっては困るからでしょうか。
今で言う、コピー的な。
誰が仕組んだんですかね、気になります。

 

薩英戦争の和平交渉の席で貿易をはじめちゃうなんて、ぶっとんでいますね。
すきです。
誰の企みでしょうか。
小松帯刀西郷隆盛あたりでしょうか。