むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

20代(女)が思ったことをつらつらと書いていくブログです

我々はどこから来てどこへ向かうのか

朝日新聞の特集「我々はどこから来てどこへ向かうのか」

1月1日から、民主主義、日本人、成長信仰、国家、家族、頭脳、巨大災害、メディアと続いた特集。
記事を切り抜いておいて、今ようやくすべて読み終わりました。

 

「民主主義」では、言葉を通じてお互いを理解し合う努力の継続が大事であるということを学び、それを続けていこうと思いました。


「日本人」では、“日本人”が何かはわかりませんが、そこにこだわって他者を排除したり別物と思ったりする必要はないのではないかと思いました。“日本人”というものにこだわる必要はないのかなと。


「成長信仰」では、そもそも失われた20年とよばれる低成長の時代しか経験したことのない私にとっては、“成長信仰”の意味が実感できないのですが、まあ“成長”というのは国家単位でなくとも、個人単位でも、“したほうがよいのではないか”というイメージがつきまとうものであると思っていて、私自身も“成長”という実態のない何かをついつい追い求めてしまいがちです。なので“成長信仰”は人間が人間である限りなくならないものなのかなあと思いました。


「国家」では、国家とは何なのだろうと思いました。国家には何を期待してよいのか。私は正直、国家には何も期待していません。なぜなら、何もしてくれないから。期待するだけ無駄だと思っています。けれども、国家に税金は納めています。年金も支払っています。医療費は国家が7割負担してくれています。他にもいろいろ、国家にしてきてもらったことはあります。
国家とは何か。領土とかいろいろと定義的なものはあると思いますが、国家は人がいなければ形成される必要はないわけで、つまり、国民ひとりひとり、つまり私たちがつくっていくものなのかもしれません。
となると、国家に期待する/しない、国家が何かをしてくれる/何もしてくれない、という表現はちょっとおかしいですね。
よりよい国家をつくるのは、他でもない私たち。だとわかりました。


「巨大災害」では、“減災”や“縮災”といったような考え方があたりまえになるべきだと思いました。最後に“雪国で「一面雪景色」と言うように、氾濫しても「一面水景色」と呼んでやり過ごせるほどになるのが理想だ”という文章があり、その通りだなと思いました。


「情報社会」では、情報の海を溺れないで泳ぎ続けられる泳ぎ方を身につけないとなあと危機感を抱きました。SNSやテレビ、ネットなど大量の情報の中から、自分の興味のあるものを絞って得るようになります、時間は限られていますから。するとその世界があたかも世の中の全てのような感覚になる、けれどもその世界は世の中のほんの少しの世界でしかなかった、ということに気づきます。私は最近気づくことができました。それでいい、その世界の中で生きていければ十分だという人もいるかもしれませんが、それは見えている世界は世の中のほんの一部であるとわかった上での考え方であればどうぞご自由にと思いますが、そうではないと危ういなと思います。
しかし、そもそも世の中の情報すべてを把握することはできないと思いました、今、この文章を書きながら。そもそもこの世の中のすべてが何かがわかりませんから。
私が触れている情報は世の中のほんの一部の情報でしかないということを頭の片隅に置きながら、目の前の情報を鵜呑みにせず、向き合うことが、溺れない泳ぎ方なのだと思います。

 

日本という国家をつくるひとりとして、安心して暮らせる世の中にするために、情報を見極め、声を上げ続けること。

 

大事なことを学びました。