むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

【堕落論】3.「必要」のみを求めよ

100分 de 名著堕落論」(著:坂口安吾)の第3回。

第1回は、「堕落論」を読み解き、
第2回は、“堕落”とは何かについて読み解きました。

mitoooomo.hatenablog.com

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そして第3回は、「堕落論」のルーツともいえる「日本文化私観」(昭和17年発表)から、安吾の思想を読み解いていきます。

ざっくりとした内容
・日本人である限り、日本を見失うはずはない。
・「伝統の美」より「生活の必要」
・生身の人間がある限り、伝統は亡びない。
・「必要」のみを求めよ。そこに真の美が生れる。
・日本人である限り、日本を見失うはずはない。


「日本文化私観」の冒頭

“タウトによれば日本に於ける最も俗悪な都市だという新潟市に僕は生れ、彼の蔑み嫌うところの上野から銀座への街、ネオン・サインを僕は愛す。茶の湯の方式など全然知らない代りには、猥りに酔い痴れることをのみ知り、孤独の家居にいて、床の間などというものに一顧を与えたこともない。”

“けれども、そのような僕の生活が、祖国の光輝ある古代文化の伝統を見失ったという理由で、貧困なものだとは考えていない。”

“タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は日本を発見するまでもなく、現に日本人なのだ。我々は古代文化を見失っているかも知れぬが、日本を見失う筈はない。日本精神とは何ぞや、そういうことを我々自身が論じる必要はないのである。”

本文に出てくるタウトとは、建築家・ブルーノタウトのこと。
当時、世界的に注目を集めていた建築家。
ナチスの迫害から日本に亡命してきた人物。
桂離宮などの伝統的建築を、精神性の高い文化であると絶賛した人物。
逆に、人工的な都会の風景を俗悪だと批判した人物。

そのタウトの名をだして、タウトの著書「日本文化私観」とまったく同じタイトルで、彼の意見に反論している。
タウトは外国人として、外から鑑賞しているにすぎないのだ。
そんな外国人の意見にまどわされるな。

 

・「伝統の美」より「生活の必要」

“伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ。我々に大切なのは「生活の必要」だけで、古代文化が全滅しても、生活は亡びず、生活自体が亡びない限り、我々の独自性は健康なのである。”

“日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ。彎曲した短い足にズボンをはき、洋服をきて、チョコチョコ歩き、ダンスを踊り、畳をすてて、安物の椅子テーブルにふんぞり返って気取っている。それが欧米人の目から見て滑稽千万であることと、我々自身がその便利に満足していることの間には、全然つながりが無いのである。彼等が我々を憐れみ笑う立場と、我々が生活しつつある立場には、根柢的に相違がある。我々の生活が正当な要求にもとづく限りは、彼等の憫笑が甚だ浅薄でしかないのである。”

何よりも優先されるべきは実際生活。
伝統でお腹がいっぱいになるわけではない。
生活が“健康”であるということが一番の基礎。
フランスのジャン・コクトー「なぜ日本人は着物を着ないのか」
安吾「着物よりズボンの方が生活しやすいから。それが健康だから」

タウトの評価を喜んだ日本人がたくさんいた。
日本はすばらしいんだという優越感。
外国人にほめられると嬉しい日本人。
日本人よ、まどわされるな。
日本人よ、自信を持て。
今の暮らしに必死になって何が悪い。
大事なのは、暮らすことだ、生きることだ。
外の人間のいうことなんか気にするな。

 

・生身の人間がある限り、伝統は亡びない

安吾が高く評価した日本人。
豊臣秀吉
タウトが俗悪だと批判した彼を、安吾は大絶賛。

“秀吉という人は、芸術に就て、どの程度の理解や、観賞力があったのだろう?そうして、彼の命じた多方面の芸術に対して、どの程度の差出口をしたのであろうか。秀吉自身は工人ではなく、各々の個性を生かした筈なのに、彼の命じた芸術には、実に一貫した性格があるのである。それは人工の極致、最大の豪奢ということであり、その軌道にある限りは清濁合せ呑むの概がある。”

秀吉にあったのは、高尚な美意識ではなく、天下一に対する強烈な意欲だとして、これを絶賛。

“俗なる人は俗に、小なるひとは小に、俗なるまま小なるままの各々の悲願を、まっとうに生きる姿がなつかしい。芸術も亦そうである。まっとうでなければならぬ。寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。若し、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。日本の建築すら、微動もしない。必要ならば、新たに造ればいいのである。バラックで、結構だ。”

自分の欲望があるなら、とことんやってみろ。格好つけるな。

“人間は、ただ、人間をのみ恋す。人間のない芸術など、有る筈がない。”

良寛抜きにいくら立派な寺があったってしょうがない。
生身の人間のものがありさえすればいい。
生身の人間に還っていけ。

 

・「必要」のみを求めよ。そこに真の美が生れる。

安吾が美しいと思ったもの、3つ。

“僕は浜辺に休み、水にうかぶ黒い謙虚な鉄塊を飽かず眺めつづけ、そうして、小菅刑務所とドライアイス工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思い出していたのであった。”

“この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要な物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。”

法隆寺平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して亡びはしないのである。”

“見給え、空には飛行機がとび、海には鋼鉄が走り、高架線を電車が轟々と駆けて行く。我々の生活が健康である限り、西洋風の安直なバラックを模倣して得々としても、我々の文化は健康だ、我々の伝統も健康だ。必要ならば公園をひっくり返して菜園にせよ。それが真に必要ならば、必ずそこにも真の美が生れる。そこに真実の生活があるからだ。そうして、真に生活する限り、猿真似を羞ることはないのである。それが真実の生活である限り、猿真似にも、独創と同一の優越があるのである。”

究極的な機能美。
しかし、機能美を目指そうとしてしまっては違う。

真に必要なものだけ、己の欲だけを追求したものだけが、美しい。

 

感想


「昔からの伝統だから」「日本人はこうあるべきと言われてきたから」
そんなものにすがる必要はない。
生活に必要かどうか、生きる上で必要かどうか、それを真に欲しているかどうか、重要なのはその点である。
そのことで、日本文化が滅びることは決してない。
なぜなら、我々は日本人だからである。

的な感じでしょうか。

堕落論」の文化バージョンという感じですが、言おうとしていることは同じですよね。

お前が本当にやりたいことは何なのか。
それはお前が心から欲していることなのか。
世間体や昔からの道徳観などにしばられて動けなくなっているだけではないのか。
本質が見えているか。

的な。

一部分だけ切り取って説明されたら、けしからん!と感じる人もいると思います。
伝統文化はそんなものではない、とか。
“生活”などという低俗なものとはかけはなれた、高尚なものなのだ、とか。

伝統文化に関しては、わたしは専門家ではないのでよくわかりません。
ただ、心に響くものもあれば、そうではないものもある、そんな感覚です。
少し前まではわたしも、「昔からあるものだから」「長い年月をかけて伝えられてきたものだから」という理由で、いいものなのではないか、残さないといけないものなのではないか、と思っていました。
そしてそれらには、言葉では説明することのできない、重みや存在感や美しさのようなものがあって、それを感じ取れることが日本人として欠かしてはならない教養のように思っていた部分がありました。
なので、そういった伝統にできるだけ触れる機会をつくろうと思っていました。
けれど、立派な寺や美術品や建築物や絵画などを見ても、ふーん、くらいにしか感じることはできませんでした。何百年も残っていてすごいなあ、くらい。
着物に関しても、そうでした。
「民族衣装を自分で着られないのは日本人くらいだ。恥ずかしい」
という話がありますが、そこに関してそれが強要されるべき理由は全くないと思います。
自分が着物を着ることが必要だと思えば、着ればよいだけのことで、着物を着る文化は日本独特のものだから、絶対に守られるべきである、それが日本のためである、我々は社会的に意義のあることをしている、と強要する立場には、少なくともわたしはなれませんでした。
結局自分は、自分の暮らしが大事で、そこが常に出発点で、自分の暮らしに必要だと思ったものはいろいろ調べたり得たりするけれど、それで自分がよいと思ったからって広めたいとは思わないし、そこは各々の必要があるわけで、もしわたしも同じものが必要だと思うのよ、話を聞かせて、と言われたら、そこで初めて話をすればいいだけのことで、そこに関してのエネルギーがほとんどないということに、最近気づきました。
いや、前からうすうす気づいていたのかもしれませんが、今回、坂口安吾の思想を知って、安吾ありがとう!と思えました。

 

安吾は別に、伝統文化を否定しているわけではないと思います。

「日本文化私観」の中で、こう言っています。

“伝統あるものには独自の威力があるものだ”

 

“然しながら、伝統の貫禄だけでは、永遠の生命を維持することはできないのだ。”

 

“貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ。”

 

また、こうも言っています。

“彼等は伝統の遺産を受継いできたが、祖国の伝統を生むべきものが、又、彼等自身に外ならぬことを全然知らないようである”

 

“伝統とか、国民性とよばれるものにも、時として、このような欺瞞が隠されている。凡そ自分の性情にうらはらな習慣や伝統を、恰も生来の希願のように背負わなければならないのである。だから、昔日本に行われていたことが、昔行われていたために、日本本来のものだということは成立たない。外国に於て行われ、日本には行われていなかった習慣が、実は日本人に最もふさわしいことも有り得るし、日本に於て行われ、外国には行われなかった習慣が、実は外国人に最もふさわしいことも有り得るのだ。模倣ではなく、発見だ。(中略)インスピレーションは、多くの模倣の精神から出発して、発見によって結実する。”

 

“説明づけられた精神から日本が生れる筈もなく、又、日本精神というものが説明づけられる筈もない。”

 

必要かどうか、そのことだけを追い求めていても、伝統は無くならない。なぜならそれが伝統になっていくからである。
的な感じでしょうか。

 

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ちなみに、第4回は、「堕落論」の小説バージョンともとらえられる作品、「白痴」を読み解く内容です。

「白痴」
堕落論」の2か月後に発表された作品。
「白痴」を読めば、「堕落論」がよりよくわかる。

 

あらすじ
時は太平洋戦争末期。
モラルも常識も持ち合わせない人間が暮らすはずれの街。
仕立て屋の離れに間借りしている、演出家見習いの青年、伊沢。
芸術を志し映画社に入ったものの、戦意高揚ニュースばかりつくる会社の現実に、不満をくすぶらせていた。
ある日、伊沢が家に帰ると、そこには隣の家から逃げてきた人妻、オサヨがいた。
美しいが、知的に障害があり、まるで人形のよう。
そんな女との、ひそやかな生活が始まった。
肉体の喜びを純粋に求める女、その一方で空襲が始まると恐怖に醜く顔をゆがめる。
伊沢はオサヨにむきだしの命をみた。
戦争という極限状態の中、人間の真実の姿を見つめた作品。

 

感想
強制的に、“堕落”した状態。
会社の現実からも、近所の目からも、芸術と生活を区別したいと思っていた気持ちからも。
そういうものが、破壊によってなくなった今。
さあ、これから伊沢はどう生きるのか。
お前たちは、どう生きるのか。
ということを、問うている作品のような気がしました。
「白痴」の終わりが、「堕落論」のはじまり、であると。