むだなものを愛しつづけられる人間でありたい

たとえば誰かに手紙を書くように、何気ない出来事を綴るとしたら。

人と自然との関係を守ることが、人々を幸福にする

BSTBSで放送している「THE歴史列伝」
2015年6月19日に放送されたのが、

「日本民俗学の父 柳田国男
作家の室井光広氏をゲストに迎え、柳田国男とはどういう人物だったのかについて迫る内容。

録画していた分を観たので、その内容と感想を。

 

[柳田国男とはどんな人物か]
・日本における民俗学創始者
・日本に関するすべてについて言及した人
・身近なものに疑問符を付けていった人
・身近なもの、小さなものから、日本とは何か、日本人とは何かという大きなものに迫ろうとした人

※ちなみに「民俗学」と「民族学」の違いは、
民俗学」:自分の国のアイデンティティを探求する学問
民族学」:異民族を研究する学問
とこの番組では解説していました。

 

[柳田国男の生涯]

貧しい中でものびのびと育った幼少時代
・1875年(明治8年)兵庫県辻川に生まれる。8人兄弟の6男。
・父は漢方医学者。西洋医学流入により漢方医学は時代遅れに。
・一家の収入は激減し、12歳のとき口減らしに。

農村の厳しい現実を知る
・医者として働いていた兄を訪ねて茨城県布川に。
・そこには豊かな農村が残っていた。
・が、どこの家庭でも子供は2人と決まっていた。
・そのことを不思議に思った国男は、ある寺でその理由を知ることになる。
・寺の柱にかけられた絵馬を目にする。
・そこには、顔を背けながら生まれたばかりの赤ん坊を押さえつけている母親の姿が描かれていた。
・飢饉を乗り切るための貧しい村の掟、「間引き」だった。

「その意味を私は子供心に理解し、
寒いような心になったことを今も憶えている」
―『故郷七十年』より

・人はこんなにも一生懸命に働いているのに、どうして飢えなくてはいけないのか。
・という疑問は、柳田国男の思想の核となった。

文学への憧れと失望
1893年(明治26年)、18歳のとき第一高等学校に入学。
・西洋の詩集など美しいロマン派文学の洗礼を受ける。
・意気投合した田山花袋と、文学について熱く語り合う日々を過ごした。
・22歳のとき、ロマンチックな詩を集めた「抒情詩」を発表。
・表現したのはかつて自分を育んだ農村への想い。
・抒情的な作家として頭角を現していく。
・ところが、国男が32歳のとき、文学に対する熱を冷ましてしまう出来事が起こる。
田山花袋「蒲団」発表。
・花袋自身の恋愛について、嫉妬心や性欲を露悪的に描き出した作品だった。
・国男はおぞましさに震え、こき下ろした。
・しかし文学界は絶賛。

「文学とは、都会人の身辺記録に価値を見出すものなのか」

・国男は文学を捨て、貧しい農村のために生きることを決意する。

国男の理想と日本国政府の現実
・1900年(明治33年)、25歳のとき、農商務省に入省。
・貧しい農村のために建議書を書くが、その声は届かない。
・その頃の政策は、「富国強兵」生産量増加、効率重視。
・農村の政策も同様に進められ、従わないものには罰金や拘留の罰が下った。
・国男はその政策に強く反発したため、わずか1年で法制局に異動させられてしまう。

農村で出会った大切なこと
・仕事の合間を見つけては農村に足を運び続けた。
・33歳のとき、宮崎県の椎葉村を訪れる。
・この土地では古来の掟に従い、養う家族が多い貧しい家には広い畑を割り当てたり、狩りの際には取り分の無いものが出ないよう掟に従い取り分が分配されたりしていた。
・山の神への信仰をもとに掟を守って支え合い、貧しさを乗り越えていた。
・そこで国男は気づいた。

「農民の暮らしのその下にある大きな文化、人と自然との関係を守ること、脈々と受け継がれてきた共同体の営みを守ることこそが、農村を幸福にするのだ」

ということに。

失われていく人々のよりどころ
1906年(明治39年)、政府は小さな社を廃止させる「神社合祀令」を公布。

「小さな氏神を祀ることで成り立っていた農村の生活。よりどころ、アイデンティティのようなものが失われ、村というものの解体が進んだ時代」

・その流れに抵抗したのが国男。
・仕事の傍ら、各地の文化や伝承を集めていった。

大きな決断
・34歳のとき、岩手遠野を訪れる。
・1910年(明治43年)、35歳のとき、「遠野物語」発表。
自費出版した本を自ら配り、古き良き日本の農村の伝統を今こそ守るべきと訴えかけていた。
・しかし近代化はさらに加速。
民間信仰はすべて廃すという政策が打ち出された。
・それを阻止すべく、志を同じくした南方熊楠と行動を起こす。
・南方の書を増刷し議員に配り根回し。
・しかし国男は官僚であったため、名前を隠し活動していた。
・このまま官僚の道を進んでも思うように動くことができない。
・そう思い、ついに44歳のとき、官を辞す。

ただの旅行記としか見られない現実
1920年(大正9年)、45歳、朝日新聞社に入社。
・在野の立場から農村の文化を発信すべく、全国を回るようになる。
・どんな神を祀り、どんな祭りや風習があるのかを訪ね歩いた。
・それを新聞で発表。
・しかし世間はただの旅行記としか見ていない。
・どうしたら価値を伝えることができるのか。
・社会的に認められた学問にすることを目指した。

民俗学の誕生
・1935年(昭和10年)7月31日、国男60歳のとき、日本民俗学講習会。
・150人の研究者が集まり、1週間のシンポジウムが開かれた。

日本人のアイデンティティが地方に暮らす人々の熱い思いの中でつながりあって、
大きな渦をなしてダイナミックに動き出す、それが民俗学

 

[感じたこと]
・畏れ多くて大きな声では言えないけど、共感する部分が多い。
・身近なもの、小さなものに疑問を持ち、そこから大きなもの、日本のアイデンティティ、日本の心を探求していくという柳田国男氏の姿勢、生き方。見習いたいとおもう。
・「脈々と受け継がれた共同体の営みを守ること、人と自然との関係を守ることこそ、農村を幸福にする」この言葉になにか大きな答えがあるような気がした。
・約100年前、柳田国男氏が守り伝えようとした農村の文化や伝承、日本人の精神などは、今も失われずに残っているのだろうか。
・私も、この地に住む人々が先祖代々受け継いできた大切なものを、知り、伝え、後世に残していきたいと思って、その一歩として、着物に関する仕事を志し、就くことができた。まだまだ知らないことだらけだけど、1つ1つ知っていって発信していくことで、何かの、誰かのためになれたらいいなと、今はただそんなことをふんわりと思っている。
なぜそう思うかは、ただ単に魅力を感じるから。
古くて、人の息遣いが感じられて、長い年月をかけてはぐくまれてきたものに。

 

柳田国男氏の本、読もう。